ニクソンショック以後、朴正煕大統領は金日成との対決で厳しい状況を強いられた。ニクソン大統領とキッシンジャー国務長官が作った米中上海共同声明(1972年2月28日)で、韓日関係が反中・反共同盟へと発展する可能性は消えた。日本は米国の裏切りに驚き、中共との国交正常化を急いだ。
文化革命の渦中でも毛沢東と周恩来は、同じ共産圏の平壌側を配慮した。だが、台湾と断交し中共と国交正常化を推進する日本としては、大韓民国の立場や安保状況への配慮は重要でなかった。韓国に進出した日本企業は、韓国よりも中共当局の要求に応えることが重要になった。
事実、韓日国交正常化後も日本社会には韓日関係の発展に対する反対や批判が続いた。この現状は、東西冷戦の構図で韓・米・日の緊密化に危機感を感じた共産圏の冷戦戦略・プロパガンダがその背後にあった。金日成は、朝鮮労働党日本支部(朝総連)に韓日関係分断闘争を督戦した。在日党は、朝総連副議長の金炳植を中心に社会党をはじめ左翼勢力との連帯を土台に、特に言論工作と右翼や自民党工作に乗り出した。
共産全体主義の本質に対して全般的に無知、寛大だった日本社会の風土は、共産圏の反米・反韓闘争に有利だった。植民地から自由共和国を建てる建国革命の過程で、「親日」清算が強調されたことへの日本社会の反発心理を巧みに刺激、大韓民国を反日・軍事独裁体制と罵倒する扇動と宣伝、洗脳作業が広範に展開された。
金大中拉致事件(73年8月)は、朴正煕政府と距離を置こうとしていた日本側に良い口実となった。日本を舞台にした南・北韓の対決で、日本の各界各層に広範囲に布陣した左翼や、東西冷戦下の社会主義圏が一つになって大韓民国を攻撃した。大韓民国は中・ソが武力攻撃で共産化に失敗した憎たらしい存在だったからだ。結論的に自由民主体制である日本で、共産全体主義と死闘を展開する朴正煕政権を積極的に支持する勢力は少数だった。
にもかかわらず、韓日国交正常化後、大韓民国国籍を選択する在日韓国・朝鮮人の数は急増した。在日韓国・朝鮮人の98%ほどが韓国出身だったため当然のことだったが、金日成は慌てた。金日成は、自らが指導する「海外同胞事業」が朴正煕大統領によって失敗することを隠さねばならなかった。平壌側は自民党と日本当局に工作、在日「朝鮮人」が「韓国」に国籍を変更する流れを隠蔽しようとした。
68年頃まで出入国管理白書で詳細に公開された在日韓国・朝鮮人の外国人登録や居住地、職業現況などが、「韓国籍」と「朝鮮籍」の登録数が逆転する70年以降は公開されなくなった。日本当局は、「韓国」と「朝鮮」に分けて統計を作っていないと言い、共産全体主義体制の実状が分かって、金日成独裁から脱出する在日朝鮮人が爆発的に増える滔々たる流れを隠す平壌側の巨大な陰謀、隠蔽工作に協力した。
朴大統領は、国連軍司令部後方司令部がある日本で、平壌側と国際共産主義勢力を相手に戦わねばならなかった。朴大統領は共産全体主義の暴力と謀略、欺瞞と扇動と正面対決に出た。朴正煕は軍人になる前に教師だった。朴大統領は自由と真実が謀略と欺瞞、洗脳に勝つと確信した。
朴大統領は「韓民統」制圧に続き、韓国赤化のための日本内革命基地である朝鮮労働党在日支部の無力化、粉砕に出た。これが在日朝総連母国訪問団事業に発展、南北韓間の熾烈な挑戦と応戦の歴史につながる。
(つづく)