尹錫悦大統領は2022年5月の就任を前に、青瓦台にあった執務室を龍山にある国防省庁舎へと移転させることを表明し、それを実現させた。首都ソウルで風水地理学上、最も良いとされる場所は朝鮮王朝の正宮・景福宮であり、青瓦台はその裏手にあたる。移転は権力の象徴であるこの地から離れ、市民との距離を縮める趣旨であった。その後、青瓦台は一般開放され、漢南洞の外交部長官邸を改築して大統領公邸とし、そこから龍山へと通う形をとっている。漢南洞は大使館や公邸が集まる場所で、東京ならば広尾や青山から市ヶ谷の防衛省まで通うようなものだ。
日本の行政の長である内閣総理大臣には千代田区永田町に首相公邸が用意されており、岸田文雄首相もここで暮らす。公邸はもともと官邸として使われた建物で、隣接する今の首相官邸は02年に新築された。大臣との閣議や組閣時の写真撮影が行われるのもこの場所だ。ちなみに同じ永田町には立法府たる国会議事堂があり、隣の隼町には司法府の最高裁判所がある。地理的な観点だけでいえば、”三権分立”に相応しい場所といえるだろうか…。
韓国の国会議事堂は漢江の中州である汝矣島、最高裁判所に相当する大法院は漢江の南側の瑞草区瑞草洞に位置しており、地図上では権力の集中を回避できている。もちろん距離感が全てではないが、街の視点からも韓日政治の違いが現れている。
次に大統領・首相経験者の私邸を見てみたい。大統領が執務室へ通勤するのは韓国では尹錫悦大統領が初めてのことだ。環境が整うまでは瑞草洞にある私邸から通っていたのだが、この瑞草洞は「江南の平倉洞」と呼ばれる高級住宅街だ。ちなみに平倉洞とは景福宮の背後にある北岳山の裏側にあたる。山に囲まれた景観という点で異なるが、東京ならば大田区田園調布のような場所だ。また朴槿惠元大統領は就任前には江南区三成洞、李明博元大統領は同区論峴洞に自宅があり、いずれもすでに売却されている。地価が高いエリアで、特に後者は渋谷区松濤周辺のように邸宅が並ぶ町だ。麻生太郎元首相は松濤の隣、神山町に私邸を構えるが、一方で近くの富ヶ谷に自宅をもつ安倍晋三元首相は2度目の就任以後はここから首相官邸に通う形をとった。平成以後は同区神宮前から通った宮澤喜一元首相以来であった。このように渋谷区、他にも世田谷区付近に居を構える首相経験者は多い。
ソウルの大統領の私邸としては仁寺洞の最寄りである安国駅の北側に尹潽善元大統領の韓屋があるが、東京なら番町のお屋敷街付近だ。ともに盟友とされ、昨年相次いでこの世を去った全斗煥元大統領と盧泰愚元大統領の自宅は西大門区延禧洞にあり、尹錫悦大統領はこの町の出身だ。
韓国では私邸の場所が派閥の名になったこともある。金泳三元大統領は銅雀区上道洞、金大中元大統領は麻浦区東橋洞に自宅があり、それぞれの派閥は上道洞系、東橋洞系と呼ばれた。後者は弘大と新村の間の住宅街に位置し、敷地には03年開業の金大中図書館がある。彼は大統領就任以前の1973年に飯田橋のホテルグランドパレスで韓国中央情報部(KCIA)に拉致されたが、解決は政治的決着により闇に葬られた。歴史の舞台となったホテルは昨年ついに営業を停止し、今年初夏には解体工事の真っ最中であった。ちなみに時の総理であった田中角栄元首相は文京区の通称「目白御殿」を拠点としたが、一方で同区にある鳩山一郎元首相の「音羽御殿」は今は一般開放されている。こうした私邸は密談の場にも使われていた。
国にとって重要な決断を下すトップの重圧は計り知れないが、そんな大統領や首相の暮らしや行動を想像してみれば、日々の政治ニュースにリアリティが増すはずだ。
吉村剛史(よしむら・たけし)
1986年生まれ。ライター、メディア制作業。20代のときにソウル滞在経験があり、韓国100都市を踏破。2021年に『ソウル25区=東京23区』(パブリブ)を出版。