新解釈・日本書紀 応神<第60回>

伴野 麓
日付: 2022年10月25日 10時54分

(76) 弓月君(ゆつきのきみ)の120県民
応神14年(403年)に、百済から弓月君が120県民を率いて渡来してきた。弓月君が言うに、「私の国の120県の人民を率いてやってきました。しかし新羅人が邪魔をしているので、みな加羅国に留っています」と。それで、葛城襲津彦(かずらきのそつひこ)を遣わしたが、3年たっても帰ってこなかった。
応神16年(405年)の秋、誉田は、平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね)と的戸田宿禰(いくはのとだのすくね)に、「葛城襲津彦が長らく還ってこない。新羅が邪魔をしているのだろう。お前たちは速やかに行って、新羅を討ち、その道を開け」と命じ、精兵を授けて加羅に遣わした。平群木菟宿禰らは兵を進めて新羅の国境に臨むと、新羅の王は恐れて道を開けたので、弓月の民を率いて葛城襲津彦と共に還ってきた。
百済120県民は、高句麗広開土王軍の攻撃を受け、後退しつつ、加羅に到ったと見られている。
その百済120県民は、広開土王碑に「倭」と表記されているもので、そのように表記されたのは、最終的に日本列島へ亡命した一群であったからであろうとされている。
それにしても、120県民とはただならぬ人数だ(1万人とも10万人規模とも推定されている)。それは応神紀の「7年秋9月、高麗人・百済人・任那人・新羅人が来朝した」という記事に対応する。
葛城襲津彦が3年たっても帰ってこられなかったのは、「任那港(釜山下端港)が封鎖された」からだ。封鎖したのは高句麗軍だ。新羅の救援要請に応じて、400年に任那加羅へ出動している。その年はちょうど弓月君の120県民が加羅国に留まらざるをえなかった年で、その後は新羅との外交紛争として表記されている。
木菟宿彌らの兵が新羅に至ると、恐れをなした新羅王は弓月君の120県民と襲津彦を解放したというが、江上波夫は「倭が高度に武装した韓半島に進出したということは歴史の通則に反する」と指摘している。確かに、120県民が抑留されたままの地へ日本列島から大軍が押し寄せたとは考えられず、日本書紀・応神紀も、大軍を派遣したとは記していない。おそらく木菟宿彌と的戸田宿彌は外交交渉団で、葛城襲津彦に合流したのであろう。

(77) 任那港は自由港に
百済120県民が、新羅を恐れさせるほどの軍隊であったなら、3年も抑留されることはなかったであろう。「日本列島へ渡る県民だから、渡ってしまえば新羅を悩ませることはないだろう」というような、葛城襲津彦らの巧みな外交術が功を奏して、新羅も納得し、任那港の封鎖を解除したのだろう。
新羅は、抵抗勢力になりかねない沸流百済の遺民を任那に残すよりは、日本列島へ追い出す方が得策と考えたのだ。
任那港の封鎖を解除し、その後も、沸流百済の遺民を送り出す港として、沸流百済(倭)が管掌する港として認知したものと考えられる。応神亡命以後の任那は、韓半島のどの国にも隷属しない自由地域のようになったのだ。


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