キッシンジャー国務長官は、韓国の核武装阻止を核拡散阻止外交の成功として強調する。だが、米国は同盟でない危険な核開発国の抑止には失敗した。韓国の核開発の推進をより難しくしたインド(1974年5月15日、核実験)とパキスタンは核開発に成功した。キッシンジャーは76年8月、パキスタンを訪問、ブット大統領に核開発を放棄しないと恐ろしい最後を迎えると脅迫した。
ブット大統領は翌年、軍部のクーデターで追放され、79年4月処刑された。朴正煕大統領が暗殺される半年前だ。だが、パキスタンの新しい軍部政権は核武装を放棄しなかった。ソ連がアフガニスタンを侵攻するや、パキスタン領内にアフガン反軍を支援する基地を設置した米国は、パキスタンの核開発を黙認する。
一方、6・25戦争を通じて米国に対抗するため核能力が必要と痛感、在韓米軍の核兵器を取り除くためのプロパガンダを展開してきた平壌の金日成は、75年8月、非同盟運動への正式加入を契機に、「韓半島非核化」プロパガンダを大々的に展開する。
米国が南ベトナム敗亡後、韓国の核開発を含む自主国防を抑制、牽制するために始めた韓・米の大規模連合訓練「チームスピリット訓練」を開始(76年6月)するや、平壌側は労働新聞(76年8月15日付)を通じ「朝鮮半島非核地帯創設」を提起した。以後、韓半島非核地帯主張は、新たな非核地帯の追加主張に発展するが、日米同盟に反対する社会党など日本の左翼は、朝鮮労働党日本支部(朝総連)と連携し金日成の戦略を支持、北東アジア非核地帯化運動などを展開することになる。
いずれにせよ、米国は朴大統領が作った核工団を集中的に監視した。本国で高度な核技術教育を受けて赴任した在韓米国大使館の科学官たちは、ソウルに長期勤務しながら核工団を随時訪問、試験室と一般事務所まで調査した。原子炉開発をめぐる韓米の葛藤は、79年、ジミー・カーター大統領の訪韓の際、絶頂に達した。呉源哲元首席は、慶尚南道昌原に建設される大規模の原子炉生産施設に対して、米国が強い疑問を抱き、カーター大統領まで直接現場を訪問しようとしたと証言する。
朴正煕大統領は、国防科学院(ADD)をしばしば訪問、格別の関心を示した。韓国はパキスタン方式の核開発を注目したという。だが、朴正煕大統領の被殺ですべてが中止される。当時、関連研究の実務陣が作成した核兵器開発技術報告書は現在、国家記録院でも見つけることができない。
朴大統領の逝去後、青瓦台の大統領個人金庫に保管中だった核心資料が消えた。呉源哲元首席秘書官は当時の状況を証言した。
「朴大統領の逝去の直後、首席秘書官たちが青瓦台に集まった。大統領の書斎の裏側にあった金庫を開けた。そこには月刊雑誌サイズの黄色い封筒が2部あったが、核兵器関連の秘密文書が収められた封筒だった。文書はもっとあったかもしれない。いずれにせよ、担当者だった私は、該当文書を封印して崔圭夏大統領に渡した。その文書は、後に新軍部に伝達されたと聞いた。私が作成した核兵器関連の一部の文書が、普通の文書として分類され(国家記録院を通じて)一般に公開されたことを知り、他の核兵器関連文書は永久秘密文書に変えるため、国家記録院を訪ねたとき、黄色い封筒の中に入れてあった文書は見つけられなかった。外部へ流出したようだ」
呉元首席秘書官は、その極秘文書が米国へ渡された可能性が高いと言った。
(つづく)