新解釈・日本書紀 応神<第58回>

伴野 麓
日付: 2022年10月12日 11時19分

(72)「直支王(ときおう)の時に修好した」の意味・つづき
晋書によれば、386年に百済王の世子が《使持節都督鎮東将軍百済王》を東晋より任じられている。その当時の百済は、亡国前の隆々たる沸流百済だ。そのよしみで416年にも朝貢し、沸流百済再建の支援を要請したものと見られる。
新撰姓氏録・河内国諸蕃に「林連は百済国の直支王の後なり」とあり、倭地にもその後裔を残したことがわかる。大阪市生野区桑津町5丁目にある桑津天(くわづてん)神社の境内に林神社が鎮座し、近隣に生野区林寺町があり、林氏の一族が栄えた地だとされている。
津田左右吉は「辰斯王が日本に無礼であったために殺されたのならば、其の日本のために立てられた阿花王が、再び日本に無礼をしたといふのは、疑はしく、単に同じことが引続いて行はれたといふ点だけから見ても、甚だ怪しい話であるから、事実として受け取り難い」との説を展開しているが、一刀両断に切り捨てるのも釈然としない。

(73)百済の実権が移った
倭国から帰った直支王は百済大王に就任、腹ちがいの弟・余信を内臣佐平(ないしんさへい・百済の最高位の官職)に任命した。就任3年(407)のことで、百済王朝に”余”氏が登場したのは、その時がはじめてだ。直支王と次の久爾辛王(くにしんおう)の姓は”解”だ。その翌年に上佐平(じょうさへい・佐平の長、首相)が新設され、余信は政事・軍事の大権を掌握して407年から429年まで在職した。
直支王が薨去(こうきょ)し、久爾辛王が幼くして王位に就いた。420~437年の在位だが、三国史記・百済本紀に収載されている久爾辛王の記事は、「久爾辛王は腆支王の長男で、腆支王が薨じて、即位した」と「8年冬12月、王が薨じた」という二つのみだ。久爾辛王を継いだ比有王(ひゆうおう)の姓は余で、余氏王権がはじめて出現した。それは、韓地の百済の実権が沸流百済から温祚百済に移ったことを意味する。

(74)木満致(もくまんち)と木刕満致(もくらまんち)は別人
日本書紀・応神紀25年(421)条に、「久爾辛王が若かったので木満致が国政を執ったが、王の母と通じて無礼が多かった」とあり、「父・木羅斤資(もくらこんし)の功を以て任那を専有し、百済と大和を往還し、百済の国政を執ったが、横暴であったため、大和朝廷は召還した」という百済記の記事を紹介している。木満致は木羅斤資が新羅を討った時、その国の女を娶って生んだとあるが、木羅斤資が活躍したのは神功時代の240年頃のことだ。
三国史記・百済本紀の蓋鹵王(がいろおう)21年(475)条に「文周は ただちに 木刕満致と祖弥傑取とともに 南へ逃げた」と記され、木満致と木刕満致は同一人物とされる。文周とは蓋鹵王の子の文周王のことだ。その記事は、高句麗との戦いのなかに現れるもので、高句麗のスパイ道琳(トリム)の姦計にはまり、高句麗の攻撃に直面したときのものである。
木満致が登場するのは、木羅斤資の子として240年頃、421年、475年の3回ということになるが、その間230年となり、あり得ない話だ。であれば、木満致は架空の人物という可能性が高くなる。


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