ソウルを東京に擬える 第14回 韓日中エスニックタウン

東アジアのリアルを感じられる街
日付: 2022年10月04日 12時24分

大林洞
池袋駅北口周辺
 2002年の韓日W杯の頃から韓流の街となった新大久保駅周辺は、メインストリートとなる大久保通りと職安通りの間には細い路地がいくつもあるが、そのひとつが「イケメン通り」で、今やGoogleマップにも記されている。ここをかつて原宿に例えて「オオクボの竹下通り」と名付けた人もいたが、16年頃から20歳前後の女性が増え、今もなお原宿を凌ぐほどの活気だ。コロナ禍で海外への渡航が制限された以後は、それまで以上に流行風のハングルフォントの看板、内外装も現地のリアルを追求するかのような店が増えた。また”포차(ポチャ)”と掲げる屋台風の店も急増した。21年12月には大久保通り沿いのビルの1階に新大久保韓国横丁というフードコートが開業し、その雰囲気は本場さながらだ。
街の細い路地は江戸期の下級武士である鉄砲組百人隊の組屋敷があった名残だ。彼らは満足な俸禄を与えられておらず、副業としてツツジ栽培を始め、次第にその名所となった。今は近くの戸山公園などで春にツツジの花が咲く。品種は異なれどツツジは韓国を代表する春の花だが、そこにコリアンタウンが形成されたのはなにかの偶然だろうか。今は多国籍タウンで中国、台湾や東南アジア、イスラム系など様々な店がある。
東京には朝鮮学校が点在しており、その周辺には”在日”が経営する飲食店や食材店が多い。一方、ニューカマーが多く通う新宿区若松町の東京韓国学校の周辺には、駐在員らの子息が通う私塾や韓国の食堂、商店もちらほらと見られる。新大久保周辺を含め新宿区は区民の11%強が外国人で、韓国人は中国人に次いで多い。
多国籍タウンといえばソウルなら梨泰院だが、米軍基地のある歓楽街でもあり、そのイメージは六本木に近い。梨泰院は豊臣時代の朝鮮出兵で生まれた混血児が集められて「異胎院」という漢字を当てたという説も存在する。その要素を受け継いだのか、梨泰院のある龍山区は外国人比率が6%を超え、日本人の数は米国人、中国人に次いで3番目だ。1950年代末に漢江沿いの漢南洞にはUNビレッジという外国人のためのアパート街が建設されたが、今もなお富裕な住宅街だ。そして日本の駐在員は同じ区内の東部二村洞(トンブイチョンドン)(二村洞東側)に住むようになった。林立する高層アパートの合間には、地元の市場とともに和食店や居酒屋がある。しかし2010年前後の日本食ブームに乗ってソウルにはCoCo壱番屋やスシローなども進出、日本式居酒屋も各地で見られ、特に珍しい存在ではなくなった。今は日本人は二村洞に限らず、日本人学校がある麻浦区にも居住者が多い。
中国人街はどうだろうか。延世大の裏手にあたる西大門区延禧洞(ヨニドン)は閑静な住宅街ながら地元に密着した中華料理店が多いが、漢城華僑中高が近くにあるためだ。学校は1960年代にこの地に移転してきたが、小学校は明洞の中国大使館隣りにあり、そのまわりも小さな中華街だ。ちなみに東京中華学校は千代田区五番町に位置する。
東京では池袋駅北口あたりが小さなチャイナタウンといわれる。町中華にかけて「ガチ中華」とも呼ばれるフードコートが雑居ビルのなかにあり、料理は中国で主流のQRコードによるスマホ注文で、味もさることながら現地感で満ちあふれている。
ソウルで”ガチな”中国街といえば、中国東北部から出稼ぎにやってきた朝鮮族が定着した町だ。かつての工場地区だった九老区付近にいくつかあり、永登浦区大林洞(デリムドン)もそのひとつだ。町全体に漢字の看板がひしめき、韓国とは思えないほどだ。治安が心配される場所ではあるが、少し足を踏み入れて中国東北部の雰囲気を味わうのもよいだろう。ソウル・東京で異国情緒あふれる東アジアを満喫してほしい。

吉村剛史(よしむら・たけし)
1986年生まれ。ライター、メディア制作業。20代のときにソウル滞在経験があり、韓国100都市を踏破。2021年に『ソウル25区=東京23区』(パブリブ)を出版。


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