新解釈・日本書紀 応神<第55回> 

伴野 麓
日付: 2022年09月21日 10時44分

 (69)東国の和珥氏族・つづき
新撰姓氏録に次のようにある。
「真野臣(まののおみ)は、天足彦国忍人の3世孫で、彦国葺(ひこくにぶく)の後裔だ。男の大口納の男(こ)の難波宿禰(なにはのすくね)の男の大矢田宿禰(おおやたのすくね)は、気長足姫(おきながたらしひめ・神功)に従って新羅を征伐て、凱旋としたまふ日、すなはち留めて鎮守将軍と為たまふ。時に彼の国王(こきし)、猶榻(いうたふ)の女を娶って、2男を生む。兄は佐久(さく)、次は武義(むげ)だ。佐久の9世孫の和珥部臣鳥(わにべのおみとり)、務大肆忍勝(むのたいしおしかつ)ら、近江国志賀郡真野村に居住する。庚寅の年に真野臣の姓を負う」
相模国高座郡(神奈川県高座郡寒川町)に寒川神社が鎮座する。『延喜式』の名神大社に列した名祠で、『東鑑』には「一宮佐河大明神」と載る。社伝によれば、祭神は応神で応神塚と称する大塚もあるが、信憑性はないということだ。
旧事本紀・国造本紀に「印波(下総)国造、軽島豊明朝(応神)御代、神八井耳命(かんやいみみのみこと)八世孫、伊都許利命(いつこりのみこと)定賜国造」とあって、印波の地は応神朝に神八井耳の後孫に下賜されたと記す。印波国は印旛沼周辺(千葉県)の地と見られ、安房国平群郡は現在の千葉県安房郡三芳村界隈で、神八井耳の後孫が領有していたとされている。
また同書には、「下海上(しもつうなかみ)国造、軽島豊明朝(応神)御世、上海上(かみつうなかみ)国造孫、久都伎直(くつきのあたい)定賜」とあり、千葉県北部の香取神宮のある下総国も海上(うなかみ)氏族に下賜されたことがわかる。海上は上古には菟上と記され、古事記に「天菩比命(あめのほひのみこと)之子、建比良鳥命(たけひらとりのみこと)、下菟上(しもつうなかみ)国造之祖也」とある。
旧事本紀・国造本紀には、さらに「茨城国造、軽島豊明朝(応神)御世、天津彦根命(あまつひこねのみこと)孫、筑紫刀禰(つくしのとね)、定賜国造」とあり、「道口岐閇国造、軽島豊明朝(応神)御世、建許呂命(たけころのみこと)兒、宇佐比乃禰(うさひのね)、定賜国造」とある。「道口岐閇国」は風土記に「多珂郡道前里」、和名抄に「道口郷」と記されている地で、岐閇は「キノヘ」と読み、「柵戸(さくこ)=辺境域に設置された城柵を守る民」の意味である。現在の日立市周辺が当時の倭国の辺境であったとみられている。

(70)辰斯王(しんしおう)の無礼とは
三国史記・百済本紀に「辰斯王は 近仇首(クングス)王(日本書紀では貴須(くるす)王)の仲の子で 枕流(とむる)王の弟である。人となりが 強く勇しく 聡明で智略が多かった。枕流王が薨じたが 太子(阿萃(アシン)王)が幼いので 叔父である辰斯が即位した」とある。その年は385年で、それを、王位の簒奪とみる向きもある。阿萃王は日本書紀には阿花(あくえ)王と記されている。
百済本紀では、狩猟に興じていた辰斯王が狗原行宮で急逝し、甥の阿萃王が王位を継承したというが、急逝の理由は記されていない。日本書紀・応神紀に「百済の辰斯王が位につき、貴国(日本)の天皇に対して礼を失することをした。そこで紀角宿禰(きのつのすくね)、羽田矢代宿禰(はたのやしろのすくね)、石川宿禰、木菟宿禰(つくのすくね)を遣わして、辰斯王を責めた。そのため、百済は辰斯王を殺して陳謝した。紀角宿禰らは阿花を立てて王とし、帰ってきた」とある。その年は、辰斯王8年・阿萃王元年の392年と推考されている。


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