新解釈・日本書紀 応神<第54回> 伴野麓

日付: 2022年09月13日 12時16分

(68)応神が入婿して新王朝になった

 応神は、品陀真若(ほむだまわか)王の娘3人を妃としている。皇后の仲姫(なかつひめ)、姉の高城入姫(たかきのいりひめ)、妹の弟姫(おとひめ)である。
品陀真若王は、丹波道主(たにわのちぬし)→日葉酢媛(ひばすひめ)→大足彦(おおたらしひこ・景行天皇)→五百城入彦(いおきいりひこ)→品陀真若王という系譜だ。品陀真若王の家に外部からきた応神が入婿したという解釈も可能となり、応神から新王朝になったことを暗喩する。それは、外部の沸流百済を迎え入れたということだ。裏返せば、品陀真若王が大王(天皇)であったのだ。
品陀真若王は新羅系山陰王朝の一員であったが、沸流百済の軍事力に屈服して臣属。沸流百済の傀儡として、表向きは自分たちの王朝を維持したのである。
その新王朝開設の立役者が、丹後で水軍を統率していた建振熊宿禰ということになっている。しかし実際は、沸流百済の侵寇に建振熊宿禰が統率する海人集団が反抗したものの、その軍事力に圧倒され涙をのんで臣属せざるを得なかったということだ。応神紀3年条の記述「処々の海人が騒いだので、阿曇連の祖の大浜宿禰が平定した」に出てくる「処々の海人」とは、建振熊宿禰が統率する海人集団を意味する。

(69)東国の和珥氏族
和珥氏は、一般に葛城氏とならぶ5世紀の応神王朝の2大姻族として認識されている。和珥氏の本宗は6世紀前半に絶えたといい、その頃から和珥氏の名前は史料から消える。6世紀の欽明王朝の頃に春日氏と改め、支流の粟田、小野、大宅などの諸氏が活躍したとされている。
「大和朝廷における和珥氏の地位の高さ」というような表現が見受けられるが、上古の時代に大和朝廷は存在していないから、一般的に考える「地位の高さ」ということはあり得ない。それは「その地を領知していた統領」という意味で、独立した存在であった。幻の大和朝廷を作り上げ、和珥氏をはじめ各地の頭領を臣属扱いにしているだけである。
和珥一族には、度守(わたしもり)首、度津(わたつ)臣という河川の津を管掌した氏族もいる。前者の度守首は、『和邇氏系図』に、葉栗(羽栗)臣と同族で、大難波宿禰の子の建穴の後とある。後者の度津臣は、三河国宝飫郡の渡津(度津)郷に起こったものだろうとされ、近隣の尾張に葉栗郡葉栗郷の地名があり、同国知多郡には和珥氏族の知多臣・和邇部(丸部)が多く見られるから、その同族と見られている。
和珥氏族は猿女(さるめ)を出した氏だ。猿女とは、古代の大嘗祭や鎮魂祭などの神事に神楽の舞などの奉仕をした女官のことだ。武埴安(たけはにやす・古事記では建波邇安・孝元天皇の息子)王の反乱を征討した彦国葺(ひこくにぶく・古事記では日子国夫玖)や忍熊王(仲哀天皇の息子)の反乱を征討した難波根子武振熊も和珥氏の祖とされるが、その2人は皇族なみに取り扱われているという。


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