大韓民国民団の建国史284

平壌の権力世襲と日本を舞台にした韓半島の冷戦
日付: 2022年08月30日 13時16分

 金正日への権力世襲は、南・北韓の共存を決定的に不可能にした。封建世襲独裁体制と自由共和制は共存できない。金正日はまず労働党組織指導部と宣伝扇動部を掌握した。そして、朝鮮労働党の存在理由でもある、中央党の韓半島赤化司令塔の対南工作部門(3号庁舎)の掌握、接取に乗り出した。
証言によれば、金正日は1975年、対南工作部署を大々的に検閲、6・25南侵前から対南工作に携ってきた古参幹部たちを批判、粛清する。金仲麟対南秘書をはじめ、古参幹部らはすべて自己批判をして退いた。金正日は対南事業を直接指導し、対南秘書を兼任することになる。党の工作機関は固有の革命・情報工作から金正日体制の構築、統治体制の強化に奉仕する道具となった。
朝鮮労働党の工作部門、特に日本支部の事業は困難に直面していた。金日成の対日工作は韓日国交正常化(65年)によって守勢に追い込まれていた。
特に在日コリアンを争取する政治事業において決定的に敗北していた。韓日国交正常化から5年後の時点で、在日韓国・朝鮮人社会の政治性向が根本的に変わった。安定した法的在留資格がなかった在日コリアンたちが、在日韓国人の法的地位に関する協定により、永住権を得ることができるようになったのだ。協定永住権を獲得しようとする在日コリアンの熱望は強かった。植民地の遺産で解放後も国籍を「朝鮮」と表記してきた圧倒的多数のコリアンが協定永住権を取得するため国籍を韓国に変えた。
国交正常化5年後、つまり、協定永住権申請時限が迫ったとき、外国人登録上の国籍表記で、韓国籍と朝鮮籍が逆転した。韓半島で南・北韓が正統性を争ってきた平壌側としては痛い敗北であり、危機だった。金日成はとりあえず、日本側に工作。金日成が指導してきた在日同胞事業の敗北を隠すことに必死になる。工作は成功した。日本法務省の入国管理局長は70年12月9日、第64回国会参議院内閣委員会で、韓国籍約32万、朝鮮籍約29万人と回答したことを最後に、日本当局は韓国籍と朝鮮籍に関する統計を発表しなくなる。
金日成は、南北間の「7・4共同声明」など激動する情勢に対応するためにも対日工作を大々的に強化する必要があった。対日工作には在日支部の実力者である朝総連中央副議長の金炳植が全面に出た。
朝総連内に秘密党員組織の「学習組」を作ったと言われる金炳植の台頭は、在日党の責任者である韓徳銖議長との権力闘争に発展した。当時の労働党3号庁舎の事情が分かる人は、在日党が韓徳銖と金炳植の権力闘争で混乱に陥るや、金日成は党連絡部長の鄭慶姫を日本に潜入させて状況を把握、報告を受けて結局、金炳植を平壌へ召喚することで事態を収拾したという。
このような状況の中で、金正日によって対南工作司令塔に対する粛清と再編が行われたのだ。金正日は、以前の対南工作路線、方法などを否定し、労働党創設以来、韓国と海外に派遣する工作員を、韓国出身や北送者などから適任者を選抜してきた方式を変えた。金正日は、資本主義に汚染していない新世代工作員の養成を指示した。北で生まれ、外部世界を全く知らない「新世代工作員」たちを教育するための教官として韓国出身や外国人たちが必要となった。
金正日の指示により、組織的に外国人が拉致された。純粋な日本人を組織的に拉致し始めたのは、金正日が党の工作部署を掌握して下した指令によるものだった。
(つづく)


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