金達寿との出会いから『季刊三千里』誌へ 3 

『日本の中の朝鮮文化』に「安部桂司君」で登場
日付: 2022年08月30日 12時47分

 中国の核開発を巡る論争が新日本文学会内で起こり、中国の核開発を容認する立場の日共系は少数派となる。日共系の作家群は新日本文学会から分かれる。その結果、日共系の文学者組織の民主主義文学同盟が組織された。金達寿はリアリズム研究会の仲間と共に民主主義文学同盟に加わっていく。その民主主義文学同盟の機関誌に、一文を寄せる。それが1968年1月号に掲載された韓半島の文化に関わるエッセーである。それを契機に金達寿は「朝鮮遺跡の旅」を『民主文学』に69年3月号から5月号まで連載している。そして6月には、金達寿の日本民主主義文学同盟からの「脱盟」がある。
一般に金達寿は日共と北労党(朝鮮総聯)の狭間にいて、北労党筋の圧力に遭遇して日共系の日本民主主義文学同盟から出た、と分析されている。私もその時期、金達寿の側にいてそのように受け止めていた。
その後に鶴見祐輔の誘いもあり、金達寿は「朝鮮遺跡の旅」を70年1月号から『思想の科学』誌に連載することになる。単行本の『日本の中の朝鮮文化』刊行へ繋がる作業であった。
金達寿は、在日韓国人への厳しい差別感情が日本社会に充満した原因を、日共の武装闘争に在日韓国人が参画したことに求めた。「あれは不味かった、武装闘争を行わなければこれほどの差別というか、日本社会で朝鮮人への忌避と差別感情を持たれることもなかった」と私に告げた。
講談社刊行の『日本の中の朝鮮文化』には、私のことを「阿部桂司」として登場させている。阿部桂司は70年代の金達寿作品に幾度となく登場する。金達寿の小説としておわりのころの作品の幾つかは私の資料探査の上に成り立っている。小説『行基』もそうだったから、あとがきには阿部桂司君への感謝の言葉が記載されている筈だ。
81年3月の金達寿訪韓後には、金達寿の謦咳に接することもなくなる。あの訪韓は驚きであった。「阿部君、韓国はカンゴクなのだ。韓国を認めるわけには行かないのだ」と「朝鮮」を強調していた金達寿が韓国へ行くなど、私の頭では理解が追いつかなかった。
昭和45年(70年)刊行の『日本の中の朝鮮文化』の冒頭、「相模国の遺跡」の項で、「新宿から小田急電車の急行でちょうど1時間、同行の阿部桂司君が持って来た地図など開いて、ああこういっているうちに、もうそこに着いていた。朝からむし暑いような、うっとうしい曇り空だったが、それでも、駅のホームに降り立ってみると、駅前の盆地に秦野の町がひろがっていて、その向こうに丹沢山塊らしい山なみが見えた」(9~10頁)
『日本の中の朝鮮文化』の初めから「阿部桂司君」は登場しているが、巻末の部分にも「記念にと思って、私は道ばたの近くにあった古墳の一つに立ちより、いっしょに来ていた阿部君に、カメラのシャッターを押してもらうことにした。そして阿部君の背越しに前方をみると、その向こうの桑畑のうえにも三基、四基とならんでいるそんな古墳が夕陽のなかに見え、私はふと、朝鮮の故郷に帰っているような錯覚におちいったものであった。」(267頁)と「阿部君」を登場させて締めている。
金達寿を「朝鮮の故郷に帰っている」ように感じさせたのは、群馬の多胡碑を訪ねたときであった。その故郷を想起させた旅で、金達寿は出獄した時の金天海の「檄」を思い起こしたに違いない。
この日本を朝鮮人の住みやすい国へ替える、それが俺の使命なのだ。金達寿の70年代の活動を支えたのは、金天海の「依命通達」に従ったものであった。

安部桂司 通産省東京工業試験所、同化学技術研究所、同物質工学工業技術研究所を経て、化学技術戦略推進機構研究開発事業部つくば管理事務所。朝鮮科学技術史の研究に従事。


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