朴大統領の下で重化学工業を担当した呉源哲大統領経済2首席秘書官は、「韓国の産業革命」に関する貴重な記録を残した。
輸出主力製品を変えるという名分の裏面には防衛産業建設という目標があった。朴正煕大統領が重化学工業政策育成を宣言した1973年1月12日、工業振興庁が発足した。
朴大統領とテクノクラットらは工業計画を作成し工場を建設するときは必ず輸出の可能性を確認し、輸出競争力を高めるため、工場の規模を国際規模の単位、さらに世界一流単位に育てていくのに全力を尽くした。品質と価格の面で国際競争力があることが基本前提となった。このような方針を効果的に遂行するため、目標を明確に定め、これを達成する時期と手段を設計した。
ここで目標は、国家が将来、建設しようとする工業構造と各業種間の組織の骨格となる構成要素が含まれる。
石油化学工業を例にすれば、下部に衣類、プラスチック製品、ゴム製品などを想定する場合、最終輸出衣類の生産のための織物工場(半製品)、織物のための合成繊維(中間原料)工場、中間原料生産をための石油化学工場をピラミッド型構造で開発、このピラミッド全体を国際競争力を持つように設計(計画)した。それでこの開発戦略を「全産業の輸出化戦略」と呼び、これがまさに「韓国の産業革命」だ。
政府は重化学工業の基盤を拡充するため、温山、昌原、麗水~光陽、群山~庇仁、龜尾など5つの大単位工業団地造成計画を発表(73年3月26日)、春川、大田、原州、清州、全州、裡里、光州、木浦などを地方工業開発奨励地区に指定(同年5月4日)、重化学工業(鉄鋼、石油化学、非鉄金属、機械、造船、電子)建設計画を確定(5月24日)した。
だが、政府がいくら戦略を樹立しても、有能で野心的な企業家たちがいなければ推進できなかった。多くの企業、企業人たちが政府の重化学工業建設ビジョンに反応、自身の事業的感覚を信じて未知の重化学工業に挑戦した。70年から造船業に飛び込んだ鄭周永(現代グループ会長)も71年西欧諸国から借款を得て、ギリシャの船社から26万トン級原油運搬船2隻を受注し、72年3月、蔚山造船所起工と同時にタンカーの建造に着手、74年6月、国家行事としてタンカー2隻の命名式を行う。
ニクソン大統領の訪中は当然、金日成にも衝撃だった。南・北韓は「7・4共同声明」を発表したが、金日成も体制強化を急がざるを得なかった。金日成は憲法を改正(6次)した。
72年12月27日、最高人民会議第5期1次会議は、朝鮮民主主義人民共和国社会主義憲法(1972年憲法)を制定した。平壌側は北を「自主的な社会主義国家」と規定、革命が人民民主主義段階から社会主義段階に移行したと宣言した。新しい憲法の主な内容は、首都を「ソウル」から「平壌」に変更、朝鮮労働党の優越的地位を明示、社会主義的所有制度の確立、主体思想の憲法上の規範化、国家主席制の導入や権限強化、内閣廃止および中央委員会、政務院の設置、集団主義強調などだ。
ここで分かるように、金日成が憲法を改正したのは労働党独裁・一人独裁体制強化が主目的だ。そして、この作業は同時に金正日への権力世襲のための措置でもあった。64年6月から党組織事業を皮切りに後継授業を受けてきた金正日の後継構図が完成していた。73年9月3日から17日間、開かれた労働党第5期7次全員会議は、金正日を後継者と決議した。
(つづく)