(66)武(建)振熊は応神朝成立の功労者
和爾氏の名は若狭が発祥の地といわれる。若狭国は現在の福井県西部の小浜市を中心とする地だが、ワニカイトという集落があり、現在も玉造り(瑪瑙)の生産をしているそうだ。カイトとは、あるいは街道が訛ったのかもしれない。その集落付近から近江に入る道があり、一般に若狭街道と呼ばれる。北川、遠敷川を下って、近江の安曇川、山城の高野川より木津川に沿って大和に入るコースだ。
遠敷の里には若狭一宮の若狭彦神社と若狭姫神社があり、彦火々出見とその妃の豊玉姫を祀っている。彦火々出見(火明)は、海部氏の祖とされ、奈良の東大寺二月堂の境内にも彦火々出見を祭神とする遠敷神社がある。
和爾下神社の祭神は、天足彦国押人、彦姥津、彦国葺の3神と、若宮は難波根子武振熊ということだ。『海部氏勘注系図』では15世孫に難波根子武振熊宿禰が記され、和爾下神社の祭神と一致し、海部氏と和爾氏とは同族という深い関係にある。
若狭から大和へ進む道中の近江で繁栄し、さらに山城に勢力を拡大した和珥氏族もいたのだ。滋賀郡志賀町に”和邇中”という地名があり、その小野神社(高島郡マキノ町西浜)の祭神は和珥氏の始祖とされる天足彦国押人である。
和珥臣の祖の難波根子武振熊宿禰は、京都は丹後にゆかりの深い人物だ。『海部氏本系図』に「建振熊宿禰」として登場し、応神が即位するのに力を貸した。日本書紀・神功紀に「武内宿禰と和珥の臣の先祖武振熊に命じて、数万の兵を率いて忍熊王を討たせた」とあり、同・仁徳紀には、飛騨国の胴体が一つで顔が二つの両面宿儺というものが人民を略奪するのを楽しみとしたので、武振熊を使わして退治したとある。
『海部氏勘注系図』によれば、息長足姫(神功)が新羅国を征伐する際に火明18世孫の丹波国造・建(武)振熊宿禰が、「丹波、但馬、若狭の海人300人を率いて、水主として奉仕し、凱旋後は勲功により、若狭木津高向宮で海部直姓を賜った」とある。それは実のところ、武振熊宿禰は応神朝をうち立てた功労者であることを物語るエピソードなのである。
延喜式・神名帳によれば、和爾部神社が若狭国三方郡に鎮座していたとある。現在は不明だが、福井県三方郡美浜町佐柿の日吉神社、あるいは耳川上流部の同町新庄の日吉神社に比定されている。前者は耳川下流東岸の海岸部に近くで、綿積に通じる和田の地名もある。後者は、若狭~近江ルートの要地にあり、彦坐王の後裔という若狭耳別氏が和珥氏女性を外祖にもつことで奉斎した神社だそうだ。
応神の五世の孫である継体は、近江と越前をホームグラウンドにしているが、和珥臣の遠祖である姥津の妹、姥津姫が生んだ彦坐王のテリトリーと重なり、孝安の兄・天足彦国押人は、その和珥臣等の始祖とされている。これは、国押の諡号が、継体王家が和珥氏であることを示唆しているというのである。国押は和珥氏であることを示唆するという。