ノースコリアンナイト~ある脱北者の物語(74) 人民班長の家で遭遇した驚くべき出来事

日付: 2022年07月12日 10時06分

 同じ風景が気分によって違うものに感じられることがある。夜に降った雪が街路樹の枝に積もっていた。白い雪が危うい感じで細い枝に乗っているのを観ながら、いろいろな考えを巡らす時間が好きだった。景色に気をとられすぎて、転んだり人とぶつかったりもした。好きだったはずの景色が今、目の前にある。ところが、細い枝に積もっている雪がやけに重たく感じて、前だけをみて小走りでジョン先生の家に着いた。
挨拶をしてジョン先生の前に座った。奥様も一緒だった。「ドンスのところの人民班長と直接会って話してみた方がいいと思う」とジョン先生は話し始めた。驚く私に、ジョン先生は「ドンスの人民班の担当保安員に相談してみたら、まずは人民班長と直接話し合って、だめだったら次の案を考えた方がいいとアドバイスされた」と言った。
もちろん私もそれが一番の近道だとは思うが、隣家に頻繁に出入りする人民班長をみて、この人を抑えられる「権力」を探さなければと決めたのだ。ジョン先生は「人民班長には病気の子供がいて生活が大変だから隣の家と仲良くしているけど、そんなに悪い人ではないらしいよ」と、返事を求めるように私をじっと見つめた。私は静かな声でゆっくりと「わかりました。話してみます」と言ってドアに向かった。後ろで      ジョン先生が「ドンスは?」と聞いてきた。
ジョン先生の質問に答える前に、奥様と目が合った。奥様が私の手を握って「痛みだけでも止めないと、かわいそうに」と言った。自身を含め、みんなに向けた言葉だと感じた。
ドンスに残された時間が少ないので、すぐ人民班長の家へ行った。ドアをノックすると返事はなかったが、扉が開いて、背が幼児のように低い大人の女性が立っていた。びっくりして瞬間停止した。
日本では何らかの障害を持っている人々を街で普通に見かけるので違和感はないが、北朝鮮では精神異常者を含めて厳重に隔離されている。街で会う障害者は祖国戦争などで負傷した「名誉軍人」など国に功労が認められた人だけだ。普通なら絶対会わないはずの人が目の前にいた。その女性の後ろにいた男性が、固まっている私の手を引っ張った。私は倒れるように人民班長の家に入ってしまった。
まだ状況が把握できずに固まっている私を、男性は部屋に案内してくれた。男性は人民班長の夫だと自己紹介して、私に「あなたは誰? このアパートの人? 初めて見る顔だな」と私に答えを求めているのか、ひとり言を言っているのか、分からない話し方をした。それから電話機を手に取ってまたびっくりだ。家に電話があるということは凄い権力を意味しているのだ。人民班長との話し合いがとても心配になってきた。
ダイヤルを回して「知らない人が来ているよ」と伝え、私をじっと見た。私が何にも言ってないのに「すぐ来るから」と言う。私は部屋の2人をみて障害者と思われる女性に目を留めた。「私の娘、病身(北朝鮮では障害を持っている人を「病身」と言う)」と紹介された。人民班長の夫に、私は「娘さんのお名前はなんというのですか」と静かな声で聞いた。
すると夫は「この子の名前?」と逆に質問してきた。「はい」と答えると「この子の名前を聞いたの?」とさらに質問してきた。私は自分も名乗ってから、「娘さんの名前を聞くのが、そんなに変ですか」と尋ねた。それでも人民班長の夫は「この子の名前?」と質問を繰り返すだけで答えなかった。さらに「この子が人だというのか?」と私に近づきながら聞いてきた。私は「質問の意味が分かりません」と伝えた。
次の瞬間、その人は近くにあった本を私に投げつけた。頭の中ではその人の質問の意味をあれこれ考えていたので、とっさの出来事に反応できず、投げた本がそのまま私に当たった。人民班長の家をノックした後から起きた出来事が理解できずに、私は呆然とした。  

(つづく)


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