大韓民国建国史281 ベトナム選の休戦と激動する韓国の安保環境

日付: 2022年07月05日 11時41分

  パリ平和会談が始まるや、ニクソン大統領は1969年7月から米軍を撤収し始めた。69年9月、胡志明が死んだ。米軍は72年初めには100人余りが残った。韓国軍も71年12月、海兵旅団を撤収した。韓国軍は72年4月までに9476人を撤収した。だが、ベトナム戦の休戦が成立するまで韓国軍は陸軍2個師団、3万7000人が残っていた。連合軍が全部撤収した南ベトナムには韓国軍だけが残り、連合軍の主力となった。
米軍が撤退した力の空白はあまりにも大きかった。韓国軍の最前線の初級将校たちも韓国軍が撤収すれば南ベトナムが危ういのが分かった。ベトナム戦の休戦が成立(73年1月27日、パリ平和協定署名)するや、すべての外国軍は休戦後60日以内に撤収せねばならないとの条項により、韓国軍も73年3月23日まで全員が撤収した。
韓国軍は延べ32万人以上が参戦、戦死4601人を含め死亡5099人、失踪4人、1万1232人が負傷した。韓国は「自由友邦に対する信義」という名分で派兵し、韓国の安保と直結したベトナム戦で貴重な戦闘・戦争経験を積んだ。韓国軍は独自の指揮権を行使、作戦をした。韓国軍はベトナム戦で、8年6カ月間連合軍として戦った。これは、6・25戦争のときに休戦まで韓国軍と米軍が共に戦った36カ月の2・8倍だ。
韓国の企業もベトナム進出を契機に世界を舞台とすることになった。ベトナム戦は韓国人たちの眠っていた対外指向の遺伝子を目覚めさせた。何より、韓国はベトナム戦参戦をきっかけに自主国防へ進むことになった。米軍と共に戦っても、米国の政治状況の変化によってはいつでも韓米同盟が機能しななくなることが分かった。
いずれにせよ、ニクソン大統領が始めた米中和解は、東西冷戦の構図を根底から揺るがした。ニクソンの戦略を西欧(NATO)に加えられるソ連の圧力を減らすため、ソ連と中共を対決させることだった。53年7月、韓半島で停戦協定発効後、過酷に封鎖されてきた中共が、西方世界と交流できるようになった。
ニクソンと毛沢東は、韓半島で戦争勃発を抑制することにした。毛沢東の許可を得てベトナム戦の第2戦線を韓国に作ろうとした金日成と、それに対抗した朴正煕大統領は情勢の激変に当惑した。朴正煕大統領と金日成は相手の意図を探るため秘密接触をした。もちろん、両方は相手を信頼しなかった。接触は情報機関が窓口となり、李厚洛中央情報部長が平壌を訪問、「7・4共同声明」(72年7月4日)が発表された。
田中角栄総理が9月26日、訪中した。日本政府はニクソンとキッシンジャーが思ったより速く動いた。西欧(NATO)を共産全体主義体制から救うため動いた米国が、アジアの反共陣営をあっという間に解体してしまうのだ。72年9月、ミュンヘンオリンピックで起きたPLO所属の「黒い9月団」のイスラエル選手団虐殺テロは、中東のアラブ世界と西欧陣営の対決構図に火をつけた。
米国の南ベトナム放棄とニクソン・毛沢東会談は、朴正煕大統領の「10月維新」決断の決定的背景となった。米国の路線変更、つまり、南ベトナムの共産化放置は、この国際環境の中で韓国が活路を開くには強力な指導体制が必要という名分を提供した。実際に「10月維新」の特別宣言文の草案には、ニクソン大統領の中共訪問のためこの特別措置を取ったという表現があったが、米国の強い反発で削除された。
(つづく)


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