韓米同盟を確固たるものにするため、ジョンソン米大統領との緊密な協議のもと、1個軍団に当たる5万人をベトナム戦に派兵した朴正熙大統領としては、米国大統領がジョンソンからニクソンに変わるやいなや、ベトナム戦からの米軍撤退を断行することを越え、駐韓米軍まで事前協議すらなしに撤収するのを見て、もはや米国に韓国の安全保障を期待してはならないことを痛感し、国家安全保障のための緊急措置を講じざるを得なくなった。
朴大統領は、激変する安保環境に機敏に対応しながら、経済発展戦略(輸出戦略)も新しい挑戦に合わせて果敢に根本的に再調整した。まさに朴大統領自身が提唱した「国民教育憲章」(1968年12月)の中の「われわれが置かれている境遇を躍進の足場にして」という、危機を機会にする不屈の挑戦精神そのものだったと言えよう。
米国がベトナム戦争から米軍を撤収し始めるや、金日成の対南挑発は益々大胆になった。67年に第124特殊ゲリラ軍団(2400人)を創設した金日成は、韓国に対する攻勢を劇的に強化した。「1・21事態」(68年)で朴大統領を殺害するための特殊部隊を南派した平壌側は、国連軍司令官が国連安保理に報告した資料によると、68年に軍事分界線突破を試みた北側の武装人員は1087人、そして後方浸透したゲリラは175人だった。1969年4月には米空軍偵察機RC121が北側によって撃墜された。これは平壌側が停戦協定を破り、韓半島にベトナム戦争の第2戦線を形成、新しい戦争を始めたと言える。
状況がこうであるにもかかわらず、ニクソン米大統領が駐韓米軍さえ撤収し始めると、金日成は70年6月5日、韓国領土である延坪島付近の公海上で韓国漁船を保護していた海軍艦艇を攻撃、乗務員20人余りを殺傷し、拉致した。また、大韓民国の爆発的な発展を導いていたリーダーシップそのものである朴大統領に対する暗殺作戦を試みた。
第2の「1・21事態」と呼ぶべき「顕忠門爆破事件」だ。70年6月22日に起きたこの事件は、6・25戦争記念式に出席してきた朴正煕大統領を狙った攻撃だった。北韓ゲリラは、6・25戦争20周年行事を期して国立顕忠院の護国英霊を参拝する朴正煕大統領と要人らを爆殺する無線遠隔操作爆弾を設置するため、22日の午前3時50分頃、国立顕忠院に潜入、顕忠門に爆弾を設置する途中、操作ミスで爆薬が爆発したのだ。
爆弾は半径30メートル以内の人を殺傷する高性能爆薬で、当時の対スパイ対策本部の調査結果によると、彼らは爆発物を顕忠門に設置して電波や有線などで爆破させる計画だったことが明らかになった(平壌側はこの遠隔操作爆弾テロ方法を83年10月、ミャンマーを訪問中の全斗煥大統領暗殺作戦でも使用した)。ゲリラの1人は、現場で即死、残党は逃走したが、軍と警察、予備軍が京畿道一帯に対する捜索と追撃戦を行い、7月5日に金浦から西側桂陽山(仁川)一帯に逃走したゲリラ2人を射殺した。
ところが、ニクソン大統領は7月6日、大韓民国の大統領暗殺のため平壌側が送ったゲリラ掃討作戦が展開中の韓国から、駐韓米軍1個師団を撤収すると通告してきた。そしてこの問題の協議のためエグニュー副大統領が8月25日に訪韓した。駐韓米陸軍7師団の撤退方針ニクソン・ドクトリンは確固たるものとなった。
(つづく)