ニクソン大統領はこのサンフランシスコ会談で朴正煕大統領に、韓国軍がベトナムに駐留している間、駐韓米軍を撤収しないと述べた。
だが、朴大統領は、1968年5月から始まったパリ平和協商とニクソン大統領が就任後、米軍がベトナムから引き揚げ始めたのを見て、米国と一緒に行くのが難しくなったことが分かった。米国のない国家安保に備えねばならないという覚悟を決めた。
米国の冷戦戦略の転換を追求していたニクソンにとって、韓国のような小さな同盟国は考慮すべき要素ではなかった。ニクソンは朴正煕大統領と会った3カ月後(69年11月)、駐韓米軍撤退計画の作成を指示した。ニクソンは、駐韓米軍を撤収させる決定をしながら韓国と事前協議をしなかった。朴大統領を騙したのだ。
駐韓米大使は70年4月、駐韓米軍2万人の削減に言及した。ニクソンの指示で訪韓(70年8月24日)したアグニュー副大統領は、駐韓米軍1個師団の削減を朴大統領に通知、駐韓米軍の完全撤収も言及した。
駐韓米7師団が71年4月撤収した。71年7月、ニクソンの中共訪問計画が発表された。韓国政府は、ニクソンの中共訪問前に韓国訪問が必要と要請(71年11月)したが、ニクソンは中共訪問の前、朴大統領と会わないと通知(12月初め)してきた。(ニクソンは72年2月21日)北京を訪問する)
大韓民国は同盟の米国から捨てられた状況となった。韓国はこの安保危機を克服するため国家の総力を動員せねばならなかった。朴大統領は、米国に立ち向かう決意を固めた。米国と良い同盟関係を作ったのに今、独り立ちの歴史的瞬間に直面したのだ。朴正煕大統領は71年12月6日、国家緊急事態を宣言した。
朴大統領はすでに自主国防に向けた努力を加速化していた。69年11月、機械工業育成方策研究用役に基づき、70年5月「韓国機械工業育成方向研究調査報告書」が提出された。1カ月後、四大核工場計画が発表された。報告書が提案したのは鋳工銑鉄、特殊鋼、重機械、造船だった。この報告により四大核工場事業が推進されたが、この計画は準備不足などで成果を出せず、終わった。
その直後の71年11月、防衛産業育成計画が報告され、そのためのタスクフォースである青瓦台に経済2首席秘書官が新設され、呉源哲が任命された。経済第2首席秘書官室は、防衛産業、「栗谷事業」、重化学工業建設、行政首都建設計画、技術人材養成などを管掌した。
朴大統領は総理直属機構として重化学工業企画団を作り、経済第2首席秘書官が団長職を兼任して事業を主管、大統領に直接報告、直接指示を受けるようにした。朴大統領を補佐したこの首席秘書官たちには政治家出身も政治志望生もいなかった。皆が徹底した非政治テクノクラットだった。いずれにせよ、72年12月、重化学工業を全面育成せねばならないという結論に達した。重化学工業化は、全産業の輸出化戦略のための戦略でもあった。73年1月、重化学工業を宣言した。
朴正煕大統領は三つの大統領特別宣言をする。72年「10月17日大統領特別宣言」(10月維新)、その3カ月後の73年1月12日の年頭記者会見の際に行われた「重化学工業化宣言」と「国民科学化宣言」だ。この3つの宣言はセットだった。朴大統領は、年頭記者会見で10月維新について詳細に説明した。
(つづく)