大韓民国建国史277 朴正煕大統領の苦悩、米国からの独り立ち、防衛産業へ

日付: 2022年05月31日 12時00分

  朴正煕大統領は超人的に働いた。朴大統領が軍事革命を起こしたのは、言うまでもなく国民を貧困から脱出させることだった。だが、朴大統領を工業化へ邁進させたのは、輸出増大以外に国家安全保障のためだった。
朴大統領は、同盟の米国の勧告を受け入れ、国内での強い反対を抑え、日本との国交正常化を急いだ。さらに、米国を助けてベトナム戦に参戦、大規模の兵力を派兵した。韓・米は、最高の同盟関係を誇示した。ところが、韓国が米国の要請を受け入れ、追加派兵をした直後から韓米関係には見えない亀裂が走り始めた。
共産陣営の戦略により、韓米関係にひびが入った。要するに、米国の政策が韓国の立場・安保現実を無視して決まり、進行し始めたのだ。同盟関係で弱い方が我慢せねばならない問題というには、あまりにも深刻な出来事が起きた。米国に対する朴正煕大統領の不安、不信を招いたのは、まず朴大統領を殺害するため金日成が送った特殊部隊の青瓦台奇襲攻撃(1968年1月21日)だった。
北側の奇襲作戦は挫折したが、韓国軍が平壌にて報復しようとするや、米国がこれを阻止した。韓国軍の作戦指揮権を持っていた米国は、ベトナムと韓半島で同時に戦争を遂行できないと判断したのだ。ベトナム戦争だけでも負担が大きいジョンソン大統領としては当然の判断かもしれないが、全世界が見ている中、国家元首殺害という戦争行為に対して報復できないことは韓国の屈辱だった。
朴正煕大統領としては米国に裏切られたのだ。朴大統領は郷土予備軍の創設など緊急措置を講じたが、金日成が大規模のゲリラ部隊侵入を通じての第2の南侵を試みていたとき、米国では大統領選挙で政権が変わる。
暗殺されたケネディ大統領の後、続いて5年間執権したジョンソン大統領は、大統領選の出馬を放棄した。ジョンソン大統領は米国政治と米国人を誰よりも理解し、また米国を愛した大統領だ。前任のケネディ大統領が任命したラスク国務長官などもそのまま重用し、ケネディの遺産と民主党の政策を忠実に履行した。
ジョンソン大統領が再選を放棄したのは、ベトナム戦が最大の原因だ。ベトナム戦争の始まりはケネディ政権の前の共和党のアイゼンハワー大統領の時だった。ベトナム戦争への介入は米国の伝統的な太平洋政策の産物だった。しかし、ベトナム戦による膨大な消耗と国内の世論の反発や国際社会の世論を米国は考慮せざるを得なかった。
それでも、米国政治指導者たちの中で、米国が無条件にベトナムから撤退すべきだと考える人は誰もいなかった。皆が名誉のある撤退と平和の保証を望んだ。このような雰囲気の中で、ジョンソン大統領は国論の分裂を防ぎたいという思いで出馬を諦めた。問題は、新たに当選したニクソン大統領が韓国と朴正煕大統領を敬遠したことだった。おそらく、自分が在野のとき訪韓した際、朴大統領が自分に会ってくれなかったことへのしこりが残っていたようだった。
69年1月、就任したニクソンは、米国の冷戦戦略、アジア政策を根本的に変える戦略を実行に移し始めた。ニクソン大統領にとって、韓・日など同盟国は些細な存在だったようだ。ニクソン大統領が就任7カ月後に開かれた韓米首脳会談(69年8月21・22日)は、韓米関係の将来を暗示した。会談場所はサンフランシスコのホテルだった。ニクソン大統領が休暇中に友達と会うため滞在中のホテルで朴正煕大統領に会ったのだ。
((つづく)


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