新解釈・日本書紀 応神<第44回>

日付: 2022年05月24日 11時23分

(55)石川宿禰は、武内宿禰の三男で、蘇我氏の祖
石川宿禰は、武内宿禰の三男で、蘇我氏の祖とされ、蘇我稲目、馬子らはその後裔である。蘇我は「宗我」とも表記され、大和国高市郡の蘇我を本拠とする。宗我坐宗都比古神社(奈良県橿原市曽我町)が鎮座し、祭神は宗我都比古ということだが、蘇我氏の本拠地はほかに、大和国葛上郡(御所市一帯)、河内国石川郡(大阪府富田林市一帯)などの説もある。
蘇我氏は孝元天皇↓大彦↓武内宿禰↓蘇我満智↓韓子↓高麗↓稲目↓馬子↓蝦夷↓入鹿とつながり、史実として蘇我氏の祖先とされるのは満智からだということだ。

(56)木菟宿彌は仁徳と名前を交換した
木菟は、古事記には都久と記され、武内宿禰の四男である。ツク(木菟・都久)はミミヅクのこと。仁徳が生まれた日、産屋にツクが飛びこんできたので、応神が武内宿禰に吉凶を問うと、自分の家でも同じ日に子が生まれ、産屋にミソサザイが飛びこんできたと答えた。目出たいことだとして、応神は「その鳥の名をとって、互いに交換し子どもに名づけ、後のしるしとしよう」と提案した。仁徳はサザキ(大鷦鷯尊)に、武内宿禰の子はツクという名前になった。
木菟宿彌は、任那(加羅)に滞留している弓月君の120県民を迎えにいった葛城襲津彦がまだ帰ってこないので、応神から葛城襲津彦を連れて帰るようにと命ぜられた。木菟宿彌はその任を果たして帰ってきた。
古事記に、武内宿禰の子の平群都久宿禰は佐和良臣等の祖とある。新撰姓氏録・河内国皇別には「額田首、早良臣同祖、平群木菟宿禰之後」と記されている。佐和良は筑前国博多の西の地とされ、早良は河内国の讃良に比定されている。

(57)穴居の習俗があった国樔人(くずびと)
国樔は国栖とも表記され、国主と表記する場合もあるが、大鷦鷯(仁徳)を支える一族であったようだ。国樔人は吉野川流域を本拠とし、その地を日本書紀は「峯高く谷深く道は険しい。このため京に遠くないが、もとから訪れることが稀であった」と形容している。古代にあっては、食料が容易に取得できる地が最高の土地だった。その意味からすると、僻遠の地とされる吉野だが、当時は枢要の地であったろうと思われる。
日本書紀・応神紀19年条に、国樔人がキノコ(菌茸)を献上する記事がある。吉野地域の産物は栗、茸、鮎などの類で、蛙を煮て上等の食物にしたとし、国樔人が土地の産物を奉る日に、歌が終わって口を打ち笑うのは上古の遺風であると説明する。その習俗は穢のそれと似ているという指摘があることから、倭が韓半島へ進出したのではないかという説もあるようだ。
応神は吉野の国樔村に離宮を置いたとされ、国樔人の接待を受けたということだが、その地は定かでない。
穴居の習俗があったために国樔人と称され、その習俗は中世にまで維持されたという。その後は全くすたれ、国樔は葛根に由来するという説も飛び出したそうだ。


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