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先人たちの知恵が詰まった冷麺 |
韓国料理を代表する一つに冷麺がある。初めて韓国を訪れた時、釜山の龍頭山公園の帰りに立ち寄った店で、焼肉の後に冷麺を食べた。「焼肉の後は冷麺で〆る」というのが一般的と、韓国の友人から聞いていたのだ。店に入るや否や注文を取りにやってきた店の方に「カルビと冷麺?」と言われ、「えっ」と顔をみると「日本人でしょ」と。店員さんの言う通りに注文をしようとすると、たまたま居合わせた地元の人たちから「ムルかビビンか」と聞かれ、オロオロしていると店の人が写真入りメニューを指さし「どっち」と。辛そうでない方を選んだ。本場の冷麺はどんな味かと期待感も高まるところに品物が運ばれてきた。麺を少しだけ口にし、「これは何? 噛み切れないぞ?」何度も挑戦したが、なかなか噛み切れなかった。そのままにして店を出てしまった。
釜山で冷麺を食べた翌年、取材でソウルを訪れた。取材も2年目になり、さまざまな韓国旅行の本を担当するようになり、渡韓回数も10数回に及んでいた。季節は6月。景福宮付近で大雨に遭遇。バケツをひっくり返したような激しい雨に、早めのランチと予定を変更した。すると、現地スタッフから「たまには冷麺を食べませんか?」と言われ、タクシーで向かった。まだ取材をしていない飲食店だが、ソウルで冷麺を食べるなら外せない名店とのこと。期待感もあったが、麺が噛み切れないのではとの不安感もあった。タクシーの運転手さんも店の名前だけでわかるほど。到着して驚いた。ここが冷麺屋さんかと思うほど立派な店構えだった。
冷麺には汁のあるムル(水)冷麺の平壌式と、汁のないビビン冷麺の咸鏡式があり、いずれも現在の北朝鮮発祥の食べ物。冷麺の主原料となるのがソバ粉。そこに緑豆の粉やジャガイモ、サツマイモの澱粉、小麦粉などを混ぜて作った麺に大根の水キムチの汁をかけた水冷麺。汁をかけずにキムチなどを混ぜて食べるビビン麺と伝わっている。さらに、寒い冬に温かなオンドル部屋で食べるのが常だったという。
店構えとともに伝統的な調度品の数々に「韓国へ来た」という嬉しさが重なる思いだった。店内を眺めていると、店のご主人がやってきた。日本からの取材チームと知り、ランチ時間には少し早かったが雨がやむまでゆっくりするようにと歓迎してくれた。それぞれ好みの冷麺を注文するとテーブルには小皿料理が並べられ、続いてアラカルトで注文したジョン(チヂミ)などと共に冷麺が運ばれてきた。「釜山の時より黒さがやや薄い」と、思いながらムル冷麺のスープからいただいた。牛からとった出汁に酸味と少しの辛さ、塩気、それらが溶け合った中に優しい甘さがあった。恐る恐る麺を噛んでみた。「あっ! 噛み切れる。麺の味わいが伝わる」。嬉しくて小躍り状態だったが、じっと我慢して「美味しいですね」と誰に言うともなく言葉が出た。すると店のご主人が「そば粉に他の物を混ぜて麺を作るのですが、小麦粉をほんの少し多くすると食べやすくなって。店によってもいろいろで、韓国に来たら自分に合うものを見つけるといいですよ」と笑った。そして、「朝鮮半島は戦争で南北に分断されてしまいましたが、戦後、北出身の人たちが冷麺やマンドゥの店を出したことで広まったと思っています。裕福な時代になって、冷麺はヘルシーな食べ物として見直されていますが、水キムチの汁やキムチを使うという先人たちの知恵が詰まった風土に合う食べ物です。出汁を取った肉は形を整えてそぎ切りにし、ゆで卵や梨などを添えています。梨は消化を助けるものとして昔から使われています。肉や卵は見た目だけではなく栄養も考えて。食べる時は好みで芥子や酢を足してください」と、説明してくれた。
歴代大統領も足繁く通ったというお店で、苦手意識があった冷麺が身近なものへと変わった。街路樹の緑も濃さを増してきた。極寒の時期よりも、蒸し暑い日にこそ酸味の利いた冷麺でさっぱりとしたい。
新見寿美江 編集者。著書に『韓国陶磁器めぐり』『韓国食めぐり』(JTB刊)などがある。