大韓民国建国史276 偉大なテクノクラートがなした全国土電化事業

日付: 2022年05月17日 12時25分

革命には理念や理想が欠かせないが、理念と理想がそのまま世の中を変えるわけではない。この理念と理想を実践、実現する努力とリーダーシップ、システムが必要だ。朴正煕のリーダーシップは、まさにこの理想を実践、実現する実務行政に強かったことだ。
朴大統領は毎年、年初に各部署と地方官署を視察した。初度巡視と呼ばれるこの視察は、20カ所が対象となった。各部署と地方官署は、昨年の業績と今年の事業計画を報告する。部署ごと各担当局長が所管業務についてブリーフィングする。局別にブリーフィングをするため、朴大統領は詳細な内容まで把握、点検でき、各部署の能力まで評価できる機会となる。局長は自分の所信を発表する絶好の機会でもある。
朴大統領は地方官署巡視を利用して、その地方の工場や技術者養成機関も視察した。報告を受けた後、昼食のときには地方有志を呼んで食事を一緒にしながら、様々な話や提案を聞く。これで、全国と全分野のことが分かるようになる。徹底した「実務確認行政」だった。この朴正煕スタイルは、あらゆる面で光った。
朴大統領が農民のために行った事業のなかで最大の業績は、全国の農家に電気を架設したことだ。農漁村電話事業は、歴史的な農村改革事業だった。1964年、西ドイツを訪問した朴正熙大統領は、国土の隅々に電気が供給されることの重要さを見た。当時、韓国の農漁村には12%だけしか電気が通っていなかった。65年から15年計画で農漁村電化事業を始めた。農漁村電化促進法(65年12月30日)も作った。農漁村電化のインフラは政府が建設するが、屋内工事は農民個人の負担だ。政府はこの経費を安い利子で融資した。事実上の補助だった。
農漁村電化事業は「セマウル運動」とともに爆発的呼応を引き出した。都市の工場で働いていた農漁村出身工員たちは、故郷の両親に電気工事のための費用を送金した。事業は計画より3年繰り上げて76年に完了した。都市と農村の情報格差がなくなった。農村にラジオをはじめ、家電製品が急速に普及した。農漁村電化事業は付随的な効果も上げた。電力使用効率化のための昇圧事業で、家庭用電気110ボルトを220ボルトに上げる昇圧も完成した。
朴大統領が陣頭指揮した輸出第一主義、「全産業の輸出化」が韓国型産業革命を加速化させた。64年に1億ドルだった輸出は、3年後の67年末に3億ドルを達成した。この3億ドルは当時、米国が韓国に提供した援助金が年間3億ドルまでだった。63年に100ドルだった1人当りGNPも150ドルになった。また3年後の70年は10億ドルを輸出、1人当たりのGNPも250ドルに増えた。その7年後の77年、韓国は年間100億ドルを輸出することになる。1人当たりのGDPも1000ドルになる。韓国は女性機能工が中心の軽工業中心から男性機能工中心の重工業中心の国家へ変貌した。
朴正煕大統領は現場で人材を発見し、重用した。朴統領は革命後に経済政策を大々的に改革するが、これは人事を通じてなされた。「優秀な人材を慎重に抜擢した後、信任し仕事を任せて長期服務させる」という人事政策を取った。責務を果たした人材は、引き続き昇進させた。朴大統領は、輸出に功が大きい朴忠勳商工部長官を副総理に昇進させ、金正濂次官を商工部長官に任命した。そして2年後の69年10月、金正禅長官を青瓦台の秘書室長に抜擢、経済政策全般の調整を任せた。  

(つづく)


閉じる