(48)大挙の渡来人は沸流百済滅亡のため
日本書紀・応神紀7年条にある「高麗人・百済人・任那人・新羅人等が来朝した」という記事は、大規模な亡命を暗喩する。というのも、応神7年は沸流百済が広開土王に撃破された396年(高句麗永楽元年)であり、沸流百済が滅亡した年だからだ。
鮎貝房之進は「高麗と書きあるものの中に、其実は高麗にあらず、馬韓を指したるものあるべき理なり。神功紀元年の高麗は百済同様若しも史実とせば、全く馬韓の方なり」と述べている。沸流百済は盛時には広範な地域を領有していたため、高麗人・百済人・任那人・新羅人という表記になったと思われる。彼ら渡来韓人に、武内宿禰は池を作らせたとある。
高度な文化を持つ騎馬民族集団(沸流百済)が、さまざまな技術者をつれて倭地に渡ってきた。征服のためではなく亡命による渡来であったが、結果的に征服になってしまった。亡国の民であった沸流百済は、高句麗広開土王に討滅されたのだ。当時の倭地は14~15世紀のアメリカ新大陸と同様、多くの民を受け入れる余地があった未開の新天地であり、それゆえ、120県民や17県民などという多くの民が入植できた。
百済が倭に文字を伝えるために和邇吉師(王仁)を遣り、鍛師(鍛冶・金打)の技術の伝授のために卓素を送り、衣縫の技術の伝授のために西素を送ったと古事記は記す。集団亡命に由来して、ケライ(家来)のもともとの漢文表記であった今来や、村祭りの神輿を担ぐ時のワッショィ(来ました)などの言葉が生じたとされる。
後世になって、倭は北海道のアイヌ族で、日本は大和族であるというふうに区別するようになった。倭を同じ発音の「和」に書き換えて日本を表す語にしたのだ。それは、中国史書などに書かれている倭が蛮族で、文化も何もない種族として表記されていることを恥ずかしく思ったからだという。
『記・紀』に記す応神朝の渡来氏族の記事は、記事内容に矛盾が内包されているとして、後世の氏族伝承の形成過程で加上されたものとする見方もある。たとえば、弓月君が120県民を率いてきた(応神紀14年条)とか、阿知使主とその子の都加使主が17県民を率いてきた(応神紀20年条)、という内容が渡来を誇示するための大げさな表現であり、矛盾に満ちたものだというものだ。また、都加使主は雄略紀に登場する「東漢直掬」のことで、年次をこえて挿入されているとか、応神紀の高句麗の遣使朝貢の記事は史実でない―などの主張がある。
(49)沸流百済に取り込まれた安曇氏族
応神紀3年条に、海人(漁民)が騒いだので、それを平らげた大浜宿禰を安曇連の祖にしたとある。
新撰姓氏録・右京地祗に「安曇宿禰、海神神積豊玉彦神子、穂高見命之後也」などとあるように、阿曇氏は古来、海人海部を統率していた大族である。先の3年条の記述は、沸流百済に反抗した海人勢力を抑え込んだ功績により、大浜宿禰が安曇連の新しい頭領になったということだ。阿曇氏は、応神王朝とともに台頭してきた海人族だ。換言すれば、新羅系山陰王朝に属していた安曇氏族が百済系大和王朝に組み込まれたということになる。