◆隼総別王(応神と糸姫の子)
隼総別は、古事記には速総別とあり、仁徳と雌鳥姫を争って殺された。隼総別は宇陀へ逃げこみ、倉橋山にのぼって歌をうたった。この地は往古、磐余から宇陀への通路だ。
◆日向泉長姫(応神の妃)
『国郡沿革考』は、日向泉長姫の出身地を薩摩国出水郡と推考する。出水は古くは泉、中世は和泉で、煙草栽培で名を馳せた。また出水は、薩摩国の北界で、肥後より薩摩に通する関門にあたり、海陸の両路があった。
◆大葉枝王・小葉枝王(応神と日向泉長姫の子)
古事記は大羽江王、小羽江王と記す。宇佐八幡宮の摂社の若宮神社は、9世紀の神託によって、この地に住む隠居神を祀るため創建されたという。若宮の名にちなんでか、いつの頃からか応神の子の隼別皇子・雌鳥皇女・大葉枝皇子・小葉技皇子ら6神を祭るようになったという。
(47)和珥氏族の実体は丹後の勢力
『記・紀』の記事は矛盾が多いと指摘されている。その理由は、韓地からの渡来を隠蔽するため、種々の事績が年代を超えてばらばらに挿入された疑いが大いにあるからだ。つまり韓隠しだ。それらを拾い出して、三国史記や三国遺事、あるいは中国史書を参考に検証しなおせば、一本の大きな糸が編まれていく。日本書紀を絶対視する史観では真実の歴史は見えてこない。
地名辞書の巻末に「現在の大阪市生野区地域は、むかし百済郡と呼ばれ百済橋、百済川、百済寺等白馬江日韓混成軍の敗戦以来、百済人の日本渡来が急激に増加し、近畿の野山はまさに、百済の人びとを迎えるに忙しく、その影響下にある仏教・大陸文化の洗礼を必然的にうけるようになった。生野区がそれらの地域の一つであり、今にその伝統を受けついでいる。博士王仁は、これらの動きとはその質を異にするが、応神帝に迎えられて渡来するや皇太子のよき師となり、その後、帝政治の真髄ともいうべき”君民一体”の仁徳帝のご仁政の基礎を築いた。その師弟のお二人を祭神として、爾来約千年有余、今に到るまでお祀りしている神社が、高津宮そのものである」と述べている。
この「百済」が明治以降に恣意的に隠蔽され、王仁博士の存在が架空のごとく扱われているのは、まことに残念というほかない。
これまで本欄では、応神朝は単なる亡命王朝ではなく、その当時の河内・大和の地の頭領であった和珥氏族と、河内・大和を侵寇した沸流百済との合体王朝であると考察した。その実体は、圧倒的な軍事力で牛耳っていた沸流百済の傀儡王朝とみている。沸流百済が辰王の権威を利用して百済(韓地西南部)を統治した手法と同じである。
和珥氏の祖とされる武(建)振熊の活躍に見られるように、和珥氏族の実体は、京都・丹後の海部氏勢力であり、河内・大和をも領知していたと考えられる。沸流百済は、和珥氏族を取り込むことによって、倭地に遥か以前から存在していた氏族であるかのように偽装し、他の氏族の不満や反発をそらした。それは、百済系大和王朝による新羅系山陰王朝の簒奪でもあった。