大韓民国建国史272 朴正煕大統領の行政方法と韓国の産業革命

日付: 2022年04月12日 11時54分

  電子工業育成方案も、1969年の夏、商工部の電子工業育成方案報告から始まった。呉源哲企画管理室長は大統領に報告した。
「今年から71年まで62品目を集中開発して1億ドルを輸出、76年まで4億ドルを輸出します」と報告した。呉室長は、政府が電子産業を重点的に育成するためには140億ウォンが必要だと力説した。製造業支援金として124億ウォン、研究や振興機関に16億ウォン。 
朴大統領は壮大な絵が描かれる途方もない報告を聞き、陪席した金鶴烈経済企画院長官に尋ねた。 「金副総理、出せるか」「はい、商工部案の通りやります」「それでは商工部案の通り措置しなさい」
朴大統領は決断を下した後も席を立たず、タバコを一服した。呉源哲は、開発しようとする部品の現物を大きなベニヤ板に吊り下げ名前を付けて置いた。それから7年後の76年、韓国の電子製品輸出額は当初目標(4億ドル)を2・5倍超過した10億3600万ドルで、全体輸出額の17・6%に達した。
呉源哲は、朴大統領が「工業分野だけでなく、農業、軍事、各種研究所、社会間接施設など、国政の全般にわたって現場と技術者たちに学ぶ     態度を堅持したため、後からは各種技術的事案について自信を持って判断を下せるようになった。彼は完璧なテクノクラートだった」と評した。
朴正熙大統領の重化学工業建設を近くで一緒に設計し補佐した呉源哲は、彼の著書『朴正熙はどのように経済強国を作ったのか―不屈の挑戦、漢江の奇跡』の冒頭で、朴正熙大統領の事業推進段階を分かりやすく説明している。貴重な観察であるためそのまま引用する。
<朴大統領が事業を推進するときは、決まった段階がある。第一・原理の導出、第二・原則の樹立、第三・施行計画の作成、第四、執行段階だ。そして、朴大統領は定期的な会議にも参加せねばならず、年初には各部署や地方官庁の人事もしなければならない。また、人事行政組織も処理せねばならず、国家元首として重大な決断も下さなければならない

原理の導出
原理というものは発見されるもので、考えて作られるものではない。そのため原理は不変だ。一度決まったら変えてはならない。行政面では「国是(国の基本となる方針)」といえる。一度決まったら、すべての行政の判断基準となる。この点は経済面で非常に重要な意味を内包する。
「経済原理」というのは、国家経済の発展が目的だ。したがって、この原理に基づき策定された政策は、やむを得ない事情により変動が生じても、国家経済の発展に役立つ方向に変わることになる。例えば、国民の生活苦の解決と経済自立は、韓国の60年代初の経済開発原理だった。
朴大統領はこの原理を達成するために「経済開発5カ年計画」という政策を樹立して推進したが、目的を達成できなかった。それで「輸出第一主義政策」へと転換したが、こうした政策の変更も、同じ経済原理を達成するために樹立された政策であるため、互いに相反する政策ではないという意味だ。
しかも、輸出をしてみたら、輸出こそ国家基本戦略という点を発見した朴大統領は、輸出第一主義を韓国の国是、つまり経済発展原理に昇格させた。国民生活の向上、雇用増大、輸出第一主義、工業入国、全産業の輸出化、国民の科学化、南北競争での勝利、高度産業国家建設と先進国進入などが経済原理に属する事項だ>
(つづく)


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