新解釈・日本書紀 応神<第33回>

日付: 2022年02月22日 11時11分

額田大中彦(応神の子)前回よりつづき
日本書紀〈神代紀〉は、スサノオ(素戔鳴)の子である天津穂彦根が額田部連の遠い先祖であるとし、古事記は天津日子根が額田部湯坐連の祖であると記している。日本書紀〈欽明紀〉には、難波大郡の接待役として氏名不詳の額田部連が登場し、〈推古紀〉は、推古女帝の幼名が額田部皇女であると記す。
額田大中彦皇子または額田部皇女の名代(=朝廷に奉仕することを義務づけられた王直属の集団のこと)とする説もある。しかし、神代の天津穂彦根と応神朝の額田大中彦との間にはブラックホールともいうべき約200年の空白があることを考えると、額田大中彦は婚姻あるいは養育などの形で、額田部氏と結びついたのではないかと思われる。
日本書紀〈仁徳紀〉に、「額田大中彦が闘鶏(奈良県都祁)へ猟に行ったとき、廬の形のようなものを調べさせると、氷室だとわかり、その氷を大王(仁徳)に献じた」という記事がある。これは額田大中彦が倭地の現状をよく知らなかったことを示唆し、応神一族が亡命(渡来)の一族であることを傍証する。
額田という地名は、大和、河内、伊勢、参河、上総、美濃、加賀、越前、備後に繁衍し、上野、備中、長門には額部という地名がある。
古事記〈応神記〉に「額田大中日子」とあり、額田に大中彦祠があって母方に縁のある地とされる。和名抄には「河内郡額田郷」とあり、新撰姓氏録〈河内国皇別〉にも「額田首」「負母子額田首」の記載がある。


五百城入彦(皇后・仲姫の祖父、景行天皇の子)
五百城入彦の名代は伊福部(=五百城部)ということだが、伊福部は尾張連の祖であるホアカリ(火明)を祖としている。伊福は鍛冶現場などで、フイゴで空気を吹き込む”息吹き”から由来する当て字とされ、伊福部は鍛冶師集団と見られる。


◆荒田姫(応神と仲姫の子)
古事記には木之荒田郎女と表記され、由縁の地が紀伊国の根来(那賀郡)とされる。その地に延喜式記載の荒田神社が鎮座し、岩出大宮の熱田明神も荒田姫を祭神としている。荒田が熱田に訛ったものだという。根来寺の周辺はいにしえ荒田森と称され、中世は広田庄と呼ばれて根来寺領で、戦国の時代は根来衆が活躍した。
荒田は安田とも呼ばれ、和名抄に在田郡英多郷を載せ、霊異記に見える安諦郡荒田村と同所とされ、英多は上田の義で、県を意味するという。荒田姫の宮があったことから宮原の称がおこり、後世、宮原荘とも称された。


◆根鳥皇子(応神と仲姫の子)=大田君の祖
古事記は、根鳥が、阿具知能三腹郎女と結婚して、中日子王・伊和島王の2人を生んだと記す。旧事本紀には淡路三原皇女とあり、三腹は三原の異表記だ。日本書紀には淡路御原皇女と表記されている。
根鳥は大田君の祖とされるが、景行の子の大碓も大田君の祖とされている。美濃国の安八郡と大野郡に大田郷があり、その伝承は詳らかでないのだが、根鳥と大碓の関係も不詳だ。


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