(46)応神の后妃と子どもたち
日本書紀によれば応神には后妃が8人、子女は20人とあり、古事記は10人の后妃と27人の子女がいたと記している。ここからは応神の后妃と子どもたち、そしてその関係者を考察していこうと思う。
◆仲姫(正妃)
仲姫は品陀真若王の娘で、景行の子の五百城入彦の孫にあたる。品陀真若王は五百城入彦が建伊那陀宿禰(尾張連の祖)の娘である志理都紀斗売を妻として、子を儲けたと伝える。五百城入彦は景行と八坂入姫との子で、八坂入姫の祖父が崇神、祖母が尾張大海姫だ。崇神王朝と応神王朝という二つの王朝を結ぶ役割を果たしているのが仲姫ら3姉妹だということになる。姉が高城入姫で、妹が弟姫であり、二人とも応神の妃となった。
◆品陀真若王(仲姫ら三姉妹の父)
古事記は品陀真若王を景行の子と記載しているが、日本書紀には記載がない。品陀真若王は河内国の古市村に属する誉田に居住した。誉田はホムタといい、後に訛ってコンダになったという。応神は別名を品陀和気というが、真若王の娘を娶ったが故の名前であり、崩じてこの地に葬られた。つまり、応神は入り婿だったのである。
◆額田大中彦(応神の子)
額田大中彦は高城入姫の子で、兄弟に大山守、去来真稚、大原姫、〓来田姫がいる。額田大中彦は、屯田司(天皇の領地の管理者)の淤宇宿禰(出雲臣の先祖)に「この屯田はもとから山守りが司る地である。いまから自分が治めるから、お前に用はない」と言って、屯田(天皇の御料田)の管理権を奪取しようとしたが、倭直の祖麻呂の弟の吾子籠が「倭の屯田は時の天皇のものである。帝の御子といっても天皇の位になければ司ることはできない」と証言して、その目的を果たすことができなかった。
吾子籠は大倭氏の統領的存在だが、続日本紀に、大倭氏から分かれた海連に大和明石連の姓を賜ったとみえることから、吾子籠は海人族に縁がある氏族と考えられる。大倭直の後裔が若狭国遠敷郡の式内社である若狭比古神社(名神大)の神主になっており、この神社の井の水が東大寺の二月堂に通じ、修二会の水取りの行事になっている。
屯田をめぐるこの故事は、額田大中彦に代表される百済系大和王朝が、吾子籠に代表される新羅系山陰王朝の反撃に遭ったことを暗喩する。つまり、百済系大和王朝が、新羅系山陰王朝が掌握していた職権を奪取しようと試みたが、失敗に終わったということだ。
出雲の地に、6世紀後半に築造されたとされる松江市岡田山一号墳から出土した円頭大刀には額田部臣の銘文が刻まれていたという。出雲国風土記には大原郡の郡司少領(=郡司の次官)外従8位上「額田部臣伊去美」と前少領「額田部臣押嶋」の名が記されている。中央貴族の最高位である臣姓は、応神朝時代に与えられ、6世紀になっても用いられていたというから、出雲の土着豪族が臣属して臣姓を与えられたか、中央貴族が下向して出雲の地を領知したかのいずれかであろうと考えられる。
鍛冶の統率者であり、鉄剣作りなどを業としたという額田部氏が、額田大中彦に発する氏族かどうかは定かではない。