大韓民国の大統領を殺害するため、特殊部隊でソウルを襲撃したのは、休戦協定を破棄した挑発だ。金日成のこの「第2の南侵」に直面した朴正熙政府としては、「東ベルリン事件」に対する対応は当然な措置だったが、事情がよく分からない国際社会から見れば、「東ベルリン事件」を取り扱った韓国当局・中央情報部の対応は、荒っぽく人権を無視した、特に他国の主権を無視する仕打ちに映ったのだ。中央情報部は海外で、特に西ヨーロッパ先進諸国が舞台となる情報戦争スパイ事件をどう扱うべきかの経験がなかった。要するに、大韓民国の中央情報部は、西側世界のインテリジェンスコミュニティのメンバーではなかったのだ。
「1・21事態」により準戦時状態となった韓国としては、「東ベルリン事件」関係者らが韓国をゲリラ戦の場にしようとする金日成の革命戦略と連携しないよう、国家保安法や反共法違反で摘発、逮捕せざるを得ない、不安で焦る立場だった。しかし、ヨーロッパを舞台にした平壌側の「知識人包摂工作」の物証を短期間に確保するのは当初から無理だった。
中央情報部は大規模なスパイ団として関連者203人を調査したが実際、検察に送致した者たちの中で検察がスパイ罪やスパイ未遂罪を適用したのは23人に過ぎなかった。そして後日、最終審でスパイ罪が認められた者はいなかった。法廷で決定的な物証を提示できなかったためだ。
韓国政府は、東ベルリンを拠点とした北側の対南工作の実像を国際的に暴露することで、ヨーロッパ地域で北側の対南工作に警鐘を鳴らし牽制した。しかし、留学生などを国内へ誘引し入国させた措置は、共産圏の逆工作で、西ドイツやフランスなどから主権侵害攻勢に遭い、国際社会で国家イメージが墜落した。共産側は特に、尹伊桑や李応魯らのための国際社会の嘆願運動などを大々的に展開、韓国を「反共軍事独裁政権」や人権後進国と罵倒した。
しかし、後に明らかになった数多くの事件を見ると、「東ベルリン事件」は、平壌側がヨーロッパを舞台に展開した対南工作の一端に過ぎなかったことが分かる。数多くの韓国人が、ヨーロッパを舞台とした平壌側の工作の犠牲となった。呉吉男博士の例で見られるように、平壌側こそ数多くの韓国人を北に誘引、拉致していった。「東ベルリン事件」を契機に、西側先進諸国の政治家たちと情報当局が、金日成の韓国赤化工作に全面協力した東欧共産圏の工作に、正面から対応したら、数多くの犠牲者を防げたはずだ。
事実、6・25南侵戦争は、スターリン主義を移植して作ったソ連の衛星国家である北韓を前に出し、韓半島全体を赤化するため、共産圏が総力を挙げ戦後、スターリンと毛沢東が連合して武力で共産化を試みたが失敗した最初の戦争だ。これで、共産圏は全面的武力侵攻で共産化を追求する戦略を放棄することになる。
そのため、共産圏は、軍事力による共産革命の限界を、冷戦を通じて、つまり政治・情報戦争を通じて達成することに総力を尽くすようになる。要するに共産圏は、6・25南侵戦争の失敗を挽回するため、金日成の韓半島革命(赤化)を全面的に支援したのだ。
一方、共産圏の全面的支援を受ける金日成は、その代価としてモスクワ(ソ連共産党)の世界革命戦略の前衛隊を自任することになる。平壌側は、モスクワの全面的支援や庇護の下、全世界に共産主義とテロリズムを輸出する最前線に乗り出すことになる。
(つづく)