(44)応神が八幡大神となった経緯
日光感精(陽の光によって懐妊すること)で誕生した「日子」には、高句麗の始祖・朱蒙、新羅の王子の妻・阿加留姫、対馬島の稲の神・天道童子、大隅正八幡(応神)などがいる。大隈正八幡の処女受胎譚は、九州の南端大隅国に「昔、震旦国(朝鮮)の大王の娘の大比留女が7歳にして朝日の光で妊娠、子を生んだので、父王これを怪しみ、虚船に乗せて流したところ、この子は大隅正八幡宮(鹿児島神宮)に祀られ正八幡(応神)となった」と伝える。応神も日子だった。その伝承から、八幡神社はすべて応神を主祭神として祀るが、古くは彦火々出見を祀ったもので、八幡比売神は海神・豊玉姫だという。
八幡神は本来、大隈正宮(鹿児島神宮)の歴史的遺跡として祭られたもので、宇佐八幡宮は一種の理想的神霊の発現であり、後に応神を八幡神に引きあてるようなったのは、史蹟と理想を調和した結果のようだ。養老3年(719年)に隼人が反乱を起こしたとき、官軍は八幡神に祈って鎮圧した。以来、八幡神の霊威が広く流布した。後に大隅正宮の伝承と宇佐神宮の託宣とが混同され、応神は八幡神に統一された。
八幡宮は、宇佐八幡宮を本宗社とし、応神(誉田別)を主祭神とする。八幡大神は、豊前宇佐地方の国造であった宇佐氏一族または大神氏一族の氏族神といわれ、奈良時代末になると、祭神を応神とする信仰が固まった。平安時代初期の859年に宇佐宮の分霊を男山に勧請し、石清水八幡宮を建立した。仏教といちはやく習合し、八幡大神に菩薩の称号が奉られた。全国的に広まり、八幡大菩薩として親しまれた。
(45)河内の八幡大神
大阪府羽曳野市誉田町にある誉田八幡宮は、応神陵のすぐ傍にあり、応神、仲哀、神功などが祭神だ。境内には応神陵へ通じる方生橋があり、祭祀には夜9時から神輿を担いで橋を渡る。入口には石灯籠と下馬碑があるが、石灯籠一基は朝鮮国王から贈られたとの案内板が立つ。
江戸時代、現在の東大阪高井田の地に応神を祭神とする品陀別命神社が鎮座する。神田を所有し、9軒の宮座で年2度の座行事が続いていたが、明治5年に鴨高田神社(東大阪市高井田元町)へ合祀された。神田も整理、宮座も解体され、現在は公園等になっている。高井田地域が中世には石清水八幡宮領であったせいか、応神を祀る神社が多かったという。
石清田別(応神)だ。旧称は男山八幡宮で、平安時代前期に八幡宮総本社の宇佐神宮(大分県宇佐市)から勧請されたという。社伝によれば、南都(奈良)大安寺の僧・行教(空海の弟子)が豊前国宇佐神宮で受けた「われ都近き男山の峯に移座して国家を鎮護せん」との神託により、貞観2年(860)、清和天皇が社殿を造営したのが創建と伝える。
大阪市東成区中本に八王子神社が鎮座する。八王子という社名は、スサノオの子である5男3女(=八王子)にちなんでつけられたという。祭神は、八王子大神、宇賀御魂、素戔鳴、大巳貴、奇稲田姫で、「当神社の創建年代は詳ならず。然りといへども社記によれば、応神帝の鎮祭したまうところと伝へらる」とのことだ。後世、”欅の宮”として広く知られた。