民族と国籍は次元が異なる概念です。一世は完全にこれを混同していましたし、私と同世代の二世も殆どは一世と同じレベルでした。民団の綱領の最初は「大韓民国の国是を遵守する」です。これがある限り民団は在日の代表には成れません。一世の時代はこれで良かったけれど、二世以下の時代になると、この綱領に適合しない子孫が多くなります。いずれ殆どの在日が日本国籍者となって、民団は自然消滅するでしょう。
国籍はメシのために必要なものです。民族は、親や先祖に繋がる価値観です。個人の集合体が民族です。民族のために個人が居るのではありません。だから自分という個人が半島から来た者の子孫だと分かるようにしておけば、国籍は自由にいくらでも変えればいいものです。
帰化するときにそのまま通名を選ぶ人の殆どはおそらく「何も考えていない」人だろうと思います。今まで使ってきた名前をそのまま何の疑問もなく採用します。しかし少し考える人は、例えば姜(カン)さんという人が居ました。彼は家の歴史は残したいが元韓国人であるということは隠したかったので、いままでの田中という通名は捨て、菅(かん)という名前を帰化名として採用しました。
帰化に際し、先祖を全否定する通名帰化をしても良いのかと、少し考えて頂きたいと思います。なぜ自分は先祖の名前を、親の名前を名乗れないのか、ということです。おそらく全員が差別を怖れて忖度して通名をそのまま使っていることでしょう。多くの人があるがままに生きていけない国、それが日本です。
在日はなぜ本名を取り戻せないのでしょうか? 韓国本国の人なら民族心がないからだ、と切り捨てるでしょうね。しかし、ことはそれほど単純ではありません。
二世以下の者は、通名を生まれたときから使っています。一世は田中だ、木村だという日本名を使っても、自分ではそれはお芝居だと知っています。だから日本で稼ぐ方便として通名を使いました。しかし二世は生まれたときから通名を使っています。動物が初めてみた動くものを親と認識するように、子供の頃から通名を使っていた二世にとっては、田中や木村こそが本名なのです。逆に李や金の方が通名になります。
本名を名乗るという時の本名は、一世にとっての本名であって、二世にとっての本名は田中や木村なのです。このようなことが分かると、民族性を回復するために本名を名乗るなどという理屈が如何に滑稽で出鱈目なものであるか分かるでしょう?
心に民族のかけらもなく、生まれたときから田中や木村を本名として使ってきた人間に、「お前は韓国人だから韓国名を使え」というのは非人間的な発言です。善意の日本人で在日が本名宣言することに関わっている人がいます。彼らは在日社会の基本構造を知りません。そのために善意で在日を逆差別してしまいます。本名の強制はかつての創氏改名と同じ差別なのです。
本名の使用は、日本語に痛めつけられている自分を見つめ、自分を差別しているのは自分だったと気が付くことから始まります。差別がないのに差別に怯えている自分の姿を直視しないでは始まりません。己の精神疾患を治し、生まれたときの純粋な心に少しでも近づこうとする思いなくしては、スタートを切ることはできません。
自分も差別者だ、と気づき、自分の差別心を克服したいと思って初めて本名と向きあうことが出来ます。そういう余裕がない人には、通名のまま生きることを勧めます。「あなたは韓国人だから韓国名を名乗りましょう」などというあほな意見は無視することです。自分の人生です。自分で納得のいく生き方をすべきです。民族や国家のために等という理屈で自分の思いを曲げてはいけません。