新解釈・日本書紀 応神<第28回>

日付: 2022年01月19日 00時00分

伴野 麓

(40)先住者・和珥(わに)一族の陰に

上田正昭著『帰化人 古代国家の成立をめぐって』は、「5世紀の大和朝廷は摂津の南部より河内地方を有力な政治上の拠点としていた。たとえば、応神天皇や仁徳天皇が皇居を難波の大隅宮や高津宮に定めていたという説話や、応神・仁徳陵などの王墓をはじめとする巨大な前方後円墳が河内国(その南部が8世紀に和泉国に分けられる)の南方に築造されたことなど、さらに5世紀の後半より大和政府の政庁で重きをなす大連家の大伴氏や物部氏の勢力が長く摂津・河内にあり、この地方の沖積平野の開拓も5世紀の段階に積極的になされるなど、5世紀にあっては河内方面は、きわめて重要な地帯であったのである」と述べ、河内王朝説を提示している。
さらに続けて、「5世紀には、宋や朝鮮南部との交渉がしきりに行われたが、瀬戸内航路は当時の対外関係においては、もっとも重要なコースであり、大阪湾より大和への通路としても河内地方の占める政治的・文化的位置はきわめて高かった。航海の神としての尊崇をあつめた住吉大神が、難波地方にまつられているのも偶然ではない」と述べている。
その当時、応神や仁徳の河内王朝が存在していたとすれば、それは百済系大和王朝に属するものであり、沸流百済によって突如樹立された王朝だ。すなわち、応神・仁徳の征服王朝は河内を地盤とし、大和に蟠踞した大伴・物部・葛城・和珥・平群・巨勢などの既存の政治勢力と並存し、その両者の連合・合作が漸次実現して、大和朝廷という連合政権が樹立されたと見られている。
しかし、征服組(渡来組)と土着組(先住組)とが並存することは容易であっても、連合・合作することは困難だ。それは、先住組が既得権保持のために渡来組を排斥する傾向が強いためだ。そのようなことから、沸流百済は、先住の和珥一族を表に立てて裏方に回り、実権を握ったと考えられる。それが応神朝であり、その後の仁徳朝において沸流百済が名実ともに実権を握ったのだ。とはいえ、沸流百済は自らの存在を黒子にしたから、沸流百済の名前は表には出ていない。

(41)「強い百済」と「弱い百済」


古事記は、応神が百済肖古王(照古王)と同時代の人物であるとしているが、三国史記〈百済本紀〉によれば、肖古王(素古王=照古王)は166~214年の在位だ。肖古王を近肖古王の誤りとする説もあるが、近肖古王の在位は346~375年であるから、いずれにしても応神以前の人物ということになる。
坂田隆著『古代の韓と日本』は「百済が二つある」と提起している。中国史書の百済は4世紀前半から5世紀後半にかけて高句麗や倭よりも強大で、北魏に拮抗するほどであったのに対し、日本史書の百済は、4世紀ごろの応神・仁徳の時代には日本よりも弱く、5世紀後半は高句麗よりも弱いという見方だ。
私見を挟めば、中国史書の百済は亡命前の沸流百済を記録したものであり、日本史書の百済は亡命後の沸流百済を記したものであると思われる。すなわち、中国史書の百済は沸流百済の全盛期、日本史書の百済は凋落した沸流百済を表現したものなのである。


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