「しっかりして。こんな寒い中で死体を二つも処理させるつもり?」
「死体処理」グループのメンバー2人は少し怒っていた。彼女たちだってこんな辛い仕事をするのは嫌だし、「死体処理」は収入になることもない。
むしろ私たちは、組織からの「死体処理」の指示に従い、身銭を切って知らない人の遺体を片づけていた。当時は1990年後半よりは「死体処理」が少なかった。「処理」に割ける人数が多いか少ないかは全く関係なく、「死体処理」は一件一件が大変なストレスで、大きく体力を消耗した。
私たちが「処理」した遺体のなかに天寿を全うしたと思しき者はおらず、特に幼い子どもの時は心身に大きな負担となったた。そんな中で私は、彼女たちにドンスの願いに関する相談もしなければいけなかった。2人がどう反応するかは明らかだったが、私は難しいドンスの願いを可能な限り叶えてあげたかった。
体が限界だと悲鳴を上げている中で、彼女たちに「まずは埋める場所を探さないと」と話しかけた。彼女たちは「ふう」と長いため息を吐いた。子どもの埋葬場所を探すのは大変で、冬は特に厳しかったからだ。
北朝鮮では未婚の子どもが亡くなることを「大変な不孝だ」としているため、夜中などに静かに「葬儀」をする。埋葬する場所を見つけるのが大変なのは常だった。墓所を管理する組織では、子どもの埋葬場所の相談に行くと対応がかなり悪かった。
人間の道徳も何もかも崩れていく社会で、「風習」という美名にすがって人間らしさを保とうとすることが余計にこっけいで悲しかった。
埋葬する場所を悪いところにもらうと土を掘るのが大問題だった。お金に余裕があればガソリンを買って、火を焚いて凍った土を柔らかくして掘ることもできるが、それは夢の話だった。
「じゃあ、山を彷徨いに行ってくる」、「あんたはその間しっかりしていて」と言って彼女たちはドンスの家を出た。
埋葬する場所を探すために、あちこちの山の管理所を尋ねないといけなかった。彼女たちの後ろ姿を無言で見送りながら、また涙が流れた。痩せこけた彼女たちへの感謝の気持ちと、申し訳ない気持ちなどで胸のあたりが痛かった。そんな私にキム君が再びお湯をくれた。
「ごめんね。泣いちゃダメなのに、本当にごめん」涙を飲み込もうとして、首が絞められるような痛みを感じた。一瞬、息ができなくて胸を叩いた。
ドンスは何も見聞きできない状態で、手で何かを書く仕草をしていた。キム君はドンスの手にノートとボールペンを握らせた。ドンスの表情は落ちついて見えた。アヘンで痛みが緩和され、呼吸も少し落ちついている感じがした。
ドンスが書いた字は読めなかった。本人は書いていると感じているのかもしれないが、おそらく指先に力が入っていないのだろう。
私とキム君は、ドンスと何の意思疎通も出来なかった。ドンスの考えは、キム君が紙に書いたものをじっと見て大まかに伝えてくれた。あと何時間残されているか分からないが、ドンスが少しは幸せな気持ちになるような話をしてあげたかった。私はドンスの手を握った。ドンスが微笑んだ。握った手に徐々に力を入れた。その時、ジョン先生がドアを開けて入ってきた。
ジョン先生が救世主のような気がして嬉しかった。ジョン先生はモルヒネの注射一本を手に入れてきた。アヘンエキスがあるのにわざわざモルヒネを持って訪れたジョン先生は「これからはアヘンエキスでは痛みが収まらないかも」と言った。何のことか、ジョン先生の話が理解できずにいると、先生は説明を始めた。「激痛が出てアヘンエキスを飲ませてから5分経ってもそのままだったら、これを打ちなさい」とステンレスのボックスと注射一本を渡してくれた。(つづく)