大韓民国の建国史(260)全国に産業団地を造成、国家建設で指導者の重要さ

日付: 2022年01月12日 00時00分

 朴正煕大統領がベトナム戦争参戦と韓日国交正常化だけにすべてをかけたわけではない。資源と技術のない貧困社会が近代化に成功した前例はなかった。創造的発想が必要だった。だが、不屈の意志を持った朴正煕は、目標を達成するために何をどう動員し、管理し、調和させねばならないのか、仕事の優先順位と、どのような人材が必要なのかを知っていた、真の戦略家だった。彼は選挙で票を得るため目標を放棄しなかった、真のリーダーだった。
後に第三世界の多くの国々や指導者たちが朴正煕の成功、朴正煕モデルを受け入れ、模倣したが、朴正煕ほどの変化と結果を出せなかったのは、彼らが朴正煕そのものになり得なかったためだ。朴正煕大統領は、法と制度の重要さをよく分かっていた。韓国が植民地時代の法令を完全に整備し韓国語に翻訳できたのは、建国から13年が過ぎた「5・16革命」の後のことだった。
朴正熙は一言でいうと、経済成長に、輸出に命をかけた大統領だった。経済は一朝一夕に成長するものではないから、発展のための「生態系」を作るため、特に人材の確保と養成に苦心した。
朴正煕は会議を通じて計画と執行を点検した。国家的に重要な決定をするときは、会議を通じて国政の核心を把握し、関係者全員にメッセージを伝える機会として活用した。
朴正煕大統領が最優先的に直接取りまとめた5大会議は、月間経済動向報告会議、輸出振興拡大会議、国務会議、国家基本運営計画審査分析会議、防衛産業振興拡大会議だった。輸出振興拡大会議と月間経済動向報告会議は、1965年から毎月定期的に大統領が直接主宰した。月間経済動向報告会議は、物価と国際収支、個別産業政策、公企業の構造調整など包括的な経済関連の国政課題を深く点検する会議だった。
朴正煕は、毎月初めの月間経済動向報告会議に必ず出席した。午前10時、大統領が国務総理と副総理と一緒に経済企画院の状況室に入る。経済関連の長次官たち、与党(共和党)の党議長と政策議長、韓国銀行と産業銀行総裁も出席した。副総理兼経済企画院長官が1時間ほど経済関連統計と物価動向、輸出実績など経済全般をブリーフィングする。大統領から「物価をこうしろ」「輸出の障害要因をこう除去しろ」など、具体的な指示が続いた。そして全国で選抜された模範セマウル指導者に対する褒賞などが行われる。
政府の経済開発5カ年計画は、現実的に軽工業中心の輸出主導政策を優先するしかなかった。限られた輸出製品さえ品質が低かったため、在日同胞の資本と技術を誘致することにし、投資を誘致する産業団地を開発した。
当時、韓国が動員できた資源とは、安い労働力だけなので、産業団地の開発は、労働力の確保が容易で産業団地開発に必要な資源が集中したソウルを中心に推進された。このような背景で64年9月14日、「輸出産業工業団地開発造成法」が制定された。この法律に基づいて66年2月、韓国輸出産業工業団地の第1団地がソウルの九老洞に造成され、その後ソウルと仁川地域に六つの団地が造成された。輸出産業団地が首都圏で成功的に開発されるや、地方も産業団地の開発に加わることになった。
ところが、全国的に産業団地造成を同時に推進するのは政府の財政能力上無理だったため、段階的に地方に産業団地を拡大した。地方の産業団地は、ほとんど「都市計画法」に基づき、一団の工業用地造成事業として開発された。
(つづく)


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