新解釈・日本書紀 応神<第24回>

日付: 2021年11月25日 00時00分

伴野 麓

 官船・枯野の建造は、沸流百済による失地回復のためと思われる。つまり、高句麗・広開土王に撃破され倭地に避難した沸流百済は、韓地の領土を取り戻すために枯野を建造したが、速く走るのはいいとしても、機が熟さず25年が経過したと考えれば、放置の説明がつく。
応神朝の時代、伊豆国が存在していたとは考えられない。旧事本紀・国造本紀に神功の時代に伊豆国造が存在している記述があることから、伊豆国は存在するとされた。そして、応神より200年後の孝徳の時代に駿河国と一緒になったが、天武の時代にふたたび独立して伊豆国が成立したとの見方もある。しかし、通説は天武の時代に設けられたとしている。
であるなら伊豆国は、九州に存在した伊都国であった可能性が高い。捲土重来を期す沸流百済は、韓地に上陸するのが目的であり、はるかに遠い伊豆国で船を建造することなどあり得ない。沸流百済は、自らの存在を黒子にしていた。韓地に最も近い伊都国で船を建造すれば韓地への攻撃という目的が明らかになってしまうため、伊豆国と恣意的に誤写して誤魔化したのではないかと考えられる。

(34)船氏(ふなうじ)は船舶建造の技術集団

応神亡命直後に日本に渡った集団の中に船氏があったといい、明治維新の時まで船氏一族が船戸講を受けついでいたとされる。藤井寺市一帯にかつて繁衍した津氏と葛井氏も船氏の同族だ。弁辰系の地名とされる辺山半島は錦江河口(韓半島)の南に位置し、昔から宮室や舟に使用する松材を産出した国の材府であったという。周辺には舟山面・小舟里のように船と関連する地名があることから、沸流百済の造船所があった地とされ、船氏は、その地で船舶を建造していた沸流百済系の技術集団であったとみられている。
とまれ、伊豆半島の下田街道の修善寺付近に延喜式官社の軽野神社が鎮座する。前を通る人が必ず笠を脱いで礼をしたということから、別名笠離明神というそうだ。軽野は狩野とも記し、枯野の船樹を伐った地とされている。当時、わざわざ伊豆の地に船材を求めなくても適地はどこにでもあっただろうに、奇怪な地というほかない。神奈川県南足柄市に狩野という地名があり、修善寺付近の軽野と同様に伊豆の枯野舟の故事を伝える地で、万葉集に「足柄小舟」「舟木伐」などと歌っている。
熱海の伊豆山に鎮座する伊豆神社は、延喜式の田方郡火牟須比命神社のことで、大江政文の記に「応神天皇の時、此大神高麗国より相州唐の濱の磯に到る、松葉仙と云者祠を建てて安置し、仁徳天皇の時此に奉祀す」とある。火牟須比神の一名は雷神ともいい、雷神は周知のとおり、上賀茂神社の祭神である大山祇だ。
ところで、日本書紀には割注が挿入されているが、それは日本書紀本来のものとは限らず、後世に記された注記がそのまま原注のように扱われる場合もよくある。たとえば、〈応神5年10月条〉の割注「由船軽疾云々(船が軽く早く走るのに、枯野と名づけるのは、道理に合わない。もしかすると軽野といったのを、後の人がなまったのでなかろうか)」は『書紀集解』所引雲蝶本の日本書紀にはないそうだから、この割注は後人が記した注とされる。割注が他の史料と矛盾する場合は、割注を捨てるのが賢明な策であるとされる。


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