朴正煕大統領は参戦国首脳会談の前に南ベトナムを訪問した。
1966年10月22日の午前11時15分、ダナン空港に到着した。雨が降り注ぐ空港には、グエン・ヴァン・ティウ議長とグエン・カオキ首相、カオ・ヴァン・ビエン軍総参謀長など南ベトナム政府要人らと、申尚澈大使と蔡命新駐ベトナム韓国軍司令官が出迎えた。朴大統領は大雨の中、ヘリコプターで猛虎師団司令部へ向かった。
韓国軍はベトナム戦争で米国の軍需支援を受け、連合軍として緊密に協力したが、独自の作戦権を行使した。米国は敵を発見し殲滅する作戦を遂行したが、建国過程で共産党と戦ってきた韓国軍の蔡命新司令官は、米軍とは違う作戦概念を発展させた。
蔡命新司令官は北韓で生まれ、平壌師範学校を卒業し小学校教員になったが、ソ連占領下の北韓を47年、単身脱出した。ソウルに来て朝鮮警備士官学校(陸軍士官学校の前身)5期生に入り、歩兵将校として任官した。蔡司令官は任官するや直ちに建国を妨害する南労党ゲリラ掃討作戦に投入され6・25戦争のときは、敵の後方に潜入して反共遊撃隊を指揮するなど、ゲリラ戦の実戦経験が豊富な智将・勇将だった。陸士の先輩の朴正煕大統領と6・25戦争中、9師団で共に勤務した縁で5・16革命にも参加した。
蔡命新司令官は、北ベトナム軍が駆使する毛沢東の「人民は水、ゲリラという魚」という「人民戦争戦術」を無力化する「分離及び殲滅」、つまり、水(人民)と魚(ゲリラ)を分離する戦略・作戦を追求した。蔡命新将軍が南ベトナムの軍・警察・学校などでテコンドーの普及に努めたのも、大きな戦略の一環だった。水と魚を分離した韓国軍の戦略はゲリラ戦で有用であることが証明された。
蔡命新将軍は4年間の駐ベトナム韓国軍司令官の後、帰国し第2軍司令官に任命されたが、朴正煕大統領の維新体制宣布に反対して軍門を去りスウェーデン、ギリシャ、ブラジル駐在大使を務めた。
いずれにせよ、韓国軍の作戦現状の報告を受けた朴正煕大統領は満足した。ベトナム戦争中、韓国と米国の最大派兵規模は人口比率で見たとき同じ(622人当たり1人派兵)だった。米国は韓国に追加で5万人の戦闘兵力派兵を要請したが、現実的に不可能だった。既に共産側は韓国を第2戦線にするという意図を公然と言い始めていた。
朴大統領は猛寅師団の将兵たちを励まし、再びダナンを経由して夕方8時に香港に戻った。10月23日の正午、朴正煕大統領一行は香港を出発、午後3時30分、マニラ国際空港に到着した。
マルコス大統領とラモス外相などフィリピン政府要人らが待っていた。握手と抱擁を交わした朴正煕大統領とマルコス大統領は、外貌や雰囲気、声まで驚くほど似ていた。二人の指導者は年齢や生きてきた人生行程も似ていた。
フィリピンは6・25戦争のとき、米国の次に迅速に歩兵戦闘大隊の韓国派兵を決定した。
太平洋戦争でフィリピン奪還の英雄だったマッカーサー将軍が、共産侵略から韓国を救うため戦争に参加するというニュースは、フィリピンの迅速な参戦決定に影響を及ぼした。フィリピン軍は延べ7420人が参戦、戦死112人、負傷299人、失踪57人(41人は捕虜交換で帰還)の犠牲者を出した。
66年、1人当たりのGNPで韓国の2倍(269ドル)だったフィリピンのマルコス大統領は、韓国が先に大規模な派兵をした事実に自尊心が傷つけられた。
(つづく)