ベトナム戦参戦を通じて韓国の国際的地位は変わった。李東元外務部長官は朴正煕大統領を説得、アジア太平洋地域諸国間の絆と協力を目的としたアジア太平洋閣僚会議(ASPAC)を創設した。韓国、豪州、中華民国、日本、マレーシア、ニュージーランド、フィリピン、タイ、ベトナム共和国など9カ国を加盟国とし、ラオスとインドネシアをアップザーバーとして1966年6月14日から16日までソウルで創立総会を開催した。ASPACは順調に発展していたが、中共の国連加入とASPAC加盟国と中共の修交をはじめ国際情勢の変化で73年から活動を中止することになる。
朴正煕大統領は6月14日、ソウルで開催されたアジア太平洋閣僚会議への挨拶で「自由はそれのために闘争する者だけが享受できるもので、平和はそれを護れる者のものだ」と自信を表明した。だが、歴史はまさにこのとき、朴正煕大統領に後日ベトナム戦参戦に関して大きな負担と試練を与える出来事が静かに近づいた。
66年8月13日の午後、ヨーロッパとアジア諸国を旅行したニクソン元米国副大統領が、金浦空港に到着した。ニクソンは60年大統領選挙でケネディに敗れ、その後カリフォルニア州知事選挙でも敗北、政治的浪人生活をしていた。
ウィンスロップ・ブラウン在韓米大使は青瓦台秘書室に、ニクソンのための大統領の晩餐会を打診した。朴大統領の反応は冷淡だった。ブラウン大使は李東元外務長官を訪ねて支援を要請した。李東元長官は朴大統領に「閣下、メディアではニクソンが終わったと冷遇していますが、彼はまだ大物で次期大統領候補に再び出馬する可能性もあります。不幸なときに彼を厚遇すれば、後日の義理を忘れないでしょう」と建議した。
しかし、朴大統領は外務長官の建設を受け入れなかった。ニクソンは朴大統領を表敬し、お茶を飲みながら儀礼的な雑談をすることで終わった。ブラウン大使はその日の夕方、韓国の長官たちを招待してニクソンと一緒に晩餐をするように準備した。ところが、あいにくその日の夕方、朴大統領が予定にもなかった青瓦台会食のため、長官たちが皆大統領に呼ばれて行き、李東元外務長官だけがニクソンのための晩餐に出席した。
李東元長官が食事後、ニクソンを料亭に招待したが、ブラウン大使が別の日程のため参席できなかったため、ニクソンは大使館の晩餐場でもっと話をしましょうと言った。李東元長官は後日の回顧録で、ニクソンは「米国がベトナムに介入したのは間違ったことだが、いったん、足を入れたら速戦速結で決着をつけるべきだ」と話し、彼から経綸と執念が感じられ、「いつか彼が大統領になるし、この日の朴大統領の冷遇は高価な対価を払うことになるだろうと感じた」と書いた。
後日、切歯腐心したニクソンが大統領に当選すると、韓米関係はぎくしゃくするようになる。ニクソンはアジアの紛争に米軍の介入を制限するグアム・ドクトリンを発表し、駐韓米軍1個師団(第7師団)撤収につながる。朴大統領はベトナム戦休戦交渉や、終戦の過程で参戦国として当然受けるべき待遇を受けられなくなる。
それは後のことで、66年の夏、ベトナム戦争は国際戦になっていた。その頃、南ベトナム駐留米軍は30万と膨大になっていた。米国は、10月に発表する参戦7カ国首脳会談の共同声明発表を通じて戦争の早期終結を計画していた。7カ国首脳会議の主役は当然、朴正煕大統領だった。(つづく)