ノースコリアンナイト~ある脱北者の物語(58)思想闘争会議と、ドンスに寄り添う夜

日付: 2021年09月29日 00時00分

たんぽぽ

北の記念行事の内容も1990年以前と比べ変化した。
忠誠の記念行事に、忠誠の音楽会と体育大会、記念集会、記念パレード、舞踏会などがあって早朝から夜遅くまで分刻みで日程が組まれた。
市民の体力などを考慮してのことなのか、90年代後半から地方では体育大会、舞踏会などの記念行事が省略して行われるようになった。
食糧を与えないばかりか飢えの苦しみを歌でごまかし、「万歳」と礼賛の叫びを求める金氏一族の残酷さ、卑劣さにはうんざりだった。反抗的な気持ちを隠して忠誠の音楽会に参加したが、表情に表れたのか、記念行事思想闘争会議で「歌う際、満面の笑みを湛えなければならないが足りなかった」と批判され「すみませんでした。急にお腹が痛くなって」と弁明した。「我慢できないほど」「急に痛くなった」などの言い訳はみんな普段から準備し練習しておくのが暗黙の了解だった。私は、批判に対してすぐ非を認め、許しを乞い会議を早く終わらせるのがいちばんの策だと思っていたが、「忠誠心」を見せるために長々と会議をやりたがる者もいた。
頭の中では、人に預けた息子のこと、姑の怒鳴り声、ドンスの容体、仕事を誰に頼むか…などでいっぱいで、思想闘争会議終わりの歌の起立に遅れてしまい、次回の相互批判の種を自ら与えてしまった。そんな私を、周りの人たちは感謝のまなざしで見た。相互批判は必ず行わなければならず、その種を探すのも大変で、提供者に感謝する「良心的」な人もいたのだ。次回は批判の的になるのは明らかで、運が悪いと命が危うくなることすらあるので、起立が遅れた言い訳を準備しないとならない。
思想闘争会議が終わり、仕事の責任者にお願いして時間をもらった。普段は意地の悪い責任者が、困難な時にはこんなに優しい人になるのかと戸惑いながら、仕事場を後にして走った。
暖房がない部屋での長時間の会議で身体はかじかんで固くなり、足は冷えて痛くなっていたので、走って身体を暖めてほぐした。息子には立ったまま会い、いちばん面倒な姑がいる家に向かった。
20リットルのタライに水を汲み頭に乗せて5階の自宅のドアをノックした。ドアを開けた姑は頭のタライを下ろす間も与えず怒鳴ってきた。
謝りながら風呂場のタンクに水を入れ、食事の支度をしつつ掃除や洗濯など家事を済ませた。姑に報告して、再び出かけてきますと言ったら、また怒鳴られた。気にする余裕もなく、薬を売っている家でロシア産ペニシリンをもう一びん買ってドンスの所に走った。ジョン先生がいた。
「どうですか」と聞くと「熱は少し下がったが意識が戻るかは分からない。このままダメになるかもしれないので、覚悟はして」と言われた。ペニシリンをジョン先生に渡し、先生の手を握ったまま「はい」と答え、固まってしまった。ジョン先生は私の肩を叩きながら、しばらくそのままでいてくれた。涙を、むりやり飲み込んだ。泣くと身体の力が抜けて二度と立てなくなる気がした。ジョン先生はドンスの傷の処置を始めた。私は前日に買った豆腐ともち米で水のようなおかゆを作った。煮沸消毒した綿の布で幅1センチ長さ15センチほどの紐を作り、その先をドンスの口に入れ、反対の先を茶碗に入れておかゆを飲ませた。約50ミリリットルのおかゆを2時間ぐらいかけて飲ませた。
その後、ジョン先生の奥さんがお弁当と先生の服を持ってきた。 
「これは?」と聞くと、「ドンスの着替えをしよう」と先生が言った。ドンスの服のシラミが気になっていたが、用意する余裕がなかったのを察してジョン先生が奥さんに頼んでくれたらしい。外はますます暗くなって風の音が大きく鳴った。
アーモンド色の薄暗いランプの下で、ジョン先生と奥さんと私は、ドンスのために少しは「大人らしいこと」をしようとしていた。
(つづく)


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