新解釈・日本書紀 応神<第16回>

日付: 2021年09月22日 00時00分

伴野 麓

 391年(広開土王元年)に百済の辰斯王は真武に高句麗の新占領地を襲撃させたが、これという成果は得られなかった。395年になると広開土王は、水軍を率い百済の沿海の壱八城・臼模廬城・古模耶羅城・関弥城等を次々に陥落させ、陸軍によって弥鄒城・也利城・掃加城・大山韓城等を落とした。
この時、広開土王みずから甲冑に身をかため、阿利水(月唐江)を渡河して百済兵8千余名を斬ったという。追いつめられた百済の阿花王は、弟1人と大臣10人を人質に差し出し、男女1千人と細布千匹を献じた。盟約書に「奴客」と自ら署名した後、高句麗を避けて虵山(今の稷山)へ遷都し、「新慰礼城」と称した。
この広開土王の南進は広開土王碑文に刻まれている。碑文は「百残、新羅は、旧これ属民にして、由りて来りて朝貢せり。しかるに倭は辛卯の年(391)をもって来りて海を渡り、百残、□□、□羅を破り、もって臣氏となす」となっており、□の不明な部分が改ざんされたとの指摘がある。

(23)竹内宿禰に弟の甘美内宿禰(うましうちすくね)が讒言

応神9年条に、武内宿禰が甘美内宿禰におとしいれられたが、盟神探湯で決着したことが記されている。盟神探湯とは、熱湯に手を入れてただれるか否かで裁判するものだ。
武内宿禰(古事記では”建内宿禰”)は、日本書紀の記述によれば景行、成務、仲哀、神功、応神、仁徳の6朝に仕え、古事記においては成務、仲哀、応神、仁徳の4朝にかけて仕え、300歳を超える長寿を全うし活躍したと伝えられている。
武内宿禰の父は屋主忍男武雄心で、紀氏の遠祖とされる。日本書紀〈孝元紀〉に「彦太忍信は武内宿禰の祖父である」とあり、〈景行紀〉に「紀直の先祖の莵道彦の娘の影姫を娶って武内宿禰を生ませた」とある。和歌山市松原字柏原は武内宿禰の生誕地とされ、今もその産湯の井戸が現存する。紀伊徳川の歴代藩主は子の誕生に、この霊泉水を産湯に用いたそうだ。その地に武内神社があり、祭神は武内宿禰だ。
武内宿禰は景行朝に北陸と東方の諸国を視察し、仲哀朝には神功と仲哀暗殺の謀略に加担したとされる。幼い応神を抱いて敦賀の苛飯大神に参向し、誉田別と伊奢沙別(気比大神)との名前交換に立ち会った。
武内宿禰のモデルは、崇神の子・豊城入彦を祖とする一族の人物だという説がある。豊城入彦の子に上毛野君の遠祖の八綱田がいるのだが、八綱田について〈垂仁紀〉に「狭穂彦・狭穂媛を焼き殺して王子・誉津別を助けだし、垂仁からその功を賞されて、倭日向武火向彦八綱田の名を賜った」とある。
彦太忍信は日本書紀では武内宿禰の祖父だが、古事記では”比古布都押之信”と記され、武内宿禰の父だ。
布都は、古事記〈神武記〉に「この刀の名は佐士布都神と云ひ、またの名は甕布都神と云ひ、またの名は布都御魂と云ふ。この刀は石上神宮に坐す」とあって、その刀名の布都と重なり、石上神宮と親縁関係にある物部氏に繋がることを示唆している。
武内宿禰の墓は、大和国の玉手(玉田とも記す)あるいは室村にあると伝えられている。『三輪神官巨勢氏系図』に「葛上郡宅村南、鉢伏山有頂、即武内之室墓也」とあるが、因幡国や長門国にも武内宿禰の墓の伝承が残されている。


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