大韓民国の建国史(249)国家目標「近代化と民族中興」にすべてを集中

日付: 2021年09月22日 00時00分

「ただ、いろいろな事情のため、博士が片時も忘れられなかった故国の地で終焉できるよう最善の機会を与えられず、異域の寂しい海浜で孤独に最期を遂げるようにしたことを心痛く思うところです。
そしてまた、博士に対する永遠の敬意として、博士の永眠の墓を国立墓地の中で最も良い吉地を選んで、安らかに葬らせたいと存じます。
生前、自ら創軍され、また彼らをもって共産侵略を撃破して世界に名をはせられた、その国軍将兵たちの英霊たちと共に、永久にこの国の護国の神になられ、民族の多難な前途を切り開いてくださる力となられることを信じ、謹んで両手を合わせて冥福を祈るとともに、遺族にも神の加護が共にあることを願います。
1965年7月27日、大統領朴正煕」
朴正煕大統領は、この弔詞をもって偉大な革命家だった建国大統領の〓南李承晩博士を歴史的に評価した。朴正煕大統領は、真の革命家だった建国大統領の遺志をつなぐ、自らの使命により一層、邁進した。 
朴大統領は休むことなく超人的に仕事をした。「祖国の近代化と民族中興」という国家目標を達成するため毎年、実践可能な施政目標を決め、年頭の記者会見で国民に発表した。65年の施政目標は、輸出・増産・建設だった。朴大統領は決定、提示した目標や課題は、徹底的に数値化した。そして、提示した目標や課題は、政府はもちろん、国民にも果たすべき課題、個人の目標として提示されたものだった。
ベトナム戦争派兵も韓日国交正常化も「祖国近代化」「民族中興」という遠大な目標に向けられたものだった。韓日国交正常化は、政治的考慮と判断が重要だったが、大規模の戦闘部隊の海外派兵は準備過程から、その複雑さと危険性が外交交渉と比べられないほど大きかった。
多くの国々が、ベトナム戦争で経済的利益を追求したが、大韓民国が同盟の米国を助けてベトナム戦争へ飛び込んだのは、国運を開拓するためだった。当然、経済発展のための資源を確保することにも成功する。韓国が60年代後半に京仁高速道路(67年3月着工、68年12月開通)をはじめ、社会インフラの建設を急速に拡大することができたのは、派兵将兵たちの本国送金が決定的だったと言える。
派兵部隊として選ばれた陸軍首都師団は、国本一般命令(陸)第30号(1965・828)に基づき部隊編成に着手、4週間の教育訓練に入った。計画団が9月15日、そして先発隊が25日、出発した。サイゴンに駐越韓国軍司令部を9月25日創設し、首都師団長の蔡命新少将が司令官に任命された。首都師団は猛虎部隊と命名され10月12日、汝矣島で第1陣の結団と歓送式が行われた。
10月16日、1個連隊を欠けた本隊が釜山港を出発。10月22日、ベトナム中南部の港のクイニョン(Qui Nhon)に上陸した。
猛虎部隊が11月1日、クイニョンに上陸。猛虎師団は11月15日、米第101空挺師団(第101空中強襲師団)と米第7海兵連隊から1200平方キロメートルの戦術責任地域を引き継ぎ、拠点を確保した。韓国軍は独自の作戦権を行使した。海兵隊の青龍部隊は猛虎部隊の前の10月9日、カムラン湾に上陸した。猛虎部隊の後続部隊の第26連隊は66年4月6日、釜山港を出港、4月16日クイニョンに上陸、猛虎師団は完全に師団編制を整えて本格的な作戦任務を遂行する。
(つづく)


閉じる