新解釈・日本書紀 応神<第15回>

日付: 2021年09月15日 00時00分

(21)京都丹後は大和へ進出する拠点

建振熊宿禰と忍熊王との戦いだが、建振熊に沙沙那美(琵琶湖)まで追いつめられた忍熊王は、建振熊の手にかかって死ぬよりも、琵琶湖に入水する方がましだと歌った。建振熊はホアカリ(火明)から18代目の孫で、時の丹波国造であり、息長足姫(神功)が新羅国討伐の時、丹波、但馬、若狭の海人300人を率いて、水主として奉仕し、凱旋後、勲功により、若狭木津高向宮で海部直姓を賜った。
換言すれば、和珥氏の祖とされる建振熊は大和と河内を領知し、沸流百済の侵寇を受け入れて協力したと思われる。それは沸流百済の圧倒的な軍事力に降服、臣属したということだろう。ゆえに、若狭木津高向宮で海部直姓を賜ったという形で、海部氏となり臣属したのだ。
従来、竹野川流域の丹後は大和の出先機関として認識され、出雲の出先機関が川上谷川流域(久美浜)にあったがゆえに、丹後は大和と出雲を結ぶ接合地と考えられていた。しかし、伴とし子著『古代丹後王国はあった』では、丹後は大和へ進出する拠点であり、久美浜は出雲を押さえる拠点だったと論じている。
先に応神の出生は謎が多いと書いたが、応神と仁徳が同一人物であるという見方もある。「神」という文字がつく神武・崇神・神功・応神の4人の天皇は渡来天皇という説もあり、筆者はそれを支持しているが、さらに私見を挟めば、渡来天皇=沸流百済を体現する天皇だったのではないか。
一方、応神は住吉大神の神裔であるとして、存在を否定する水野祐説もある。「住吉大神が神功皇后にのりうつって応神天皇が誕生したという所伝は、他面において、神功皇后すなわち息長帯姫が息長系氏族の始祖であるとすると、新羅系氏族と息長系氏族との結合を考えさせる。息長帯姫の系譜は、開化天皇に発する彦坐王系の、丹波、山城、近江等に分布する日本海沿岸の息長氏族と、天日槍を始祖とする新羅系帰化氏族―但馬系氏族との混血した新羅系氏族の血を濃厚にもつことを示している」と主張している。
京都府与謝郡岩滝町字男山の板列八幡神社の祭神は誉田別(応神)だ。鎮座地は平安時代、石清水八幡宮の荘園。その地の出身者で京都山科の小野曼陀羅寺を開いた仁海(951~1046)が、石清水八幡宮から勧請し創建したということだが定かではない。

(22)高句麗・広開土王の南進

三国史記<百済本紀>によれば、百済の王位は、始祖温祚王↓多婁王↓己婁王↓蓋婁王↓肖古(照古・背古・速古)王↓仇首(貴須)王↓沙伴王↓古尓王↓責稽王↓汾西王↓比流王↓契王↓近肖古王↓近仇首王↓枕流王↓辰斯王↓阿〓(阿花)王↓腆支(直支)王↓久尓辛王↓比有王↓蓋鹵王↓〓洲(文周)王↓三斤王↓昆ジ王↓末多(東城)王と継承されていく。
385年に即位した辰斯王の時、高句麗の太子談徳(好太王=広開土王)が南進を開始し、漢水以北の要地を奪取した。この事態に倭王は、「辰斯王は倭国に対して旡礼(無礼)である」と激怒したという。その結果、辰斯王は暗殺され阿花王が即位した。


閉じる