講師:勝股 優
以前、日本語には「イチ、ニィ・サン」と「ヒィ、フ、ミ」という数え方があり、これは北方系と南方系の言葉が併存した二重構造のためと書いたことがある。列島に多様な民族がやってきたことを表すわけだが、言語学者として著名で広辞苑を編纂した新村出博士がヒィ、フ、ミの三つの数詞は高句麗語であると解明し、定説となっている。十までしか数える必要がなかったはるか昔の言葉なのだが、高句麗語と聞いてビックリ。半島と列島の古代史の奥深さを感じる。
半島は古代語の資料がほとんど失われた珍しい文明といわれ、新村博士も苦労したようだ。7世紀に新羅が半島を統一することによって、それまでのアルタイ語系の名前や地名を全部中国風に変えた。半島特有の名称が消えることになり、古代語資料も消失したというわけらしい。
新羅について書こうとした時、こんなことを思い出した。
さて、ここからが21世紀の新羅の旅だ。
三国時代初期、洛東江の東岸から日本海沿岸にかけてが新羅の領土だった。倭とは加耶をめぐって緊迫した関係が続いたが、水面下では鉄で結ばれていた。
蔚山のヒュンダイ工場を視察したことがある。蔚山といえば加藤清正の絶体絶命の籠城戦が日本では有名だが、その時の取材で仰日湾にかけての海岸で良質の砂鉄が採れたことを知った。
新羅の王子・天日矛伝説がある。これは天日矛に名を借りた新羅のタタラ製鉄集団が仰日湾から漕ぎ出し、良質の砂鉄が採れる但馬(本当は鳥取、島根)にやってきたという話だ。事実、加耶に頼っていた鉄の調達が5世紀初めから新羅に移り、やがて鉄が生産できるようになる。まさに日本の製鉄の源流は蔚山や仰日湾。今、製鉄やそれに伴う自動車産業で両国は競い合う。電気自動車では韓国リードの様相だ。
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友鹿洞には沙也可の一族が今も住んでいる。谷あいの村の人家は増え、一族の繁栄がわかる。村には廟が二カ所あり、今も孔子を祭っている |
私の韓国旅行に有名な観光地はほとんどないが、千年の都・慶州は外してない。初めて訪れた時、街の中に高く大きな古墳がボコボコ飛び出している風景に驚き感動した。都城のあった場所に国立博物館があるが、その煌びやかさは私が観た博物館ナンバーワンだ(入場無料なのも素晴らしい)。
新羅の黄金文化はいったいどこから来たのかと思う。その伝播ルートを推測するとまことに壮大だ。はるか西方、黒海のほとりで紀元前8世紀から栄えた最初の遊牧騎馬民族スキタイは素晴らしい意匠の黄金製品を作ったが、その文化が西アジアから中央アジアのステップルート(草原の道)を経て東アジアの遊牧民族に伝わり新羅に到達したといわれる。新羅にはスキタイ好みの意匠も伝わる。
新羅はペルシャやローマで作られたガラス器も好んだ。隣国の百済が好んだのは中国の陶磁器。百済の古墳からは無数の中国産陶磁器が発掘されているがガラス器はまったくない。逆に新羅の古墳はガラス器や西方の物が多く、中国の陶磁器の発掘は一例のみだという。アイデンティティの違いが明らかだ。日本の正倉院のガラス器6点は新羅からの伝来品だろう。
新羅では黄金の冠や冠帽、耳飾、指環、帯金具などで支配者の体を飾った。黄金趣味では百済、高句麗は新羅ほどではない。中国は玉を最高のものとし銀の方を好んだ。一方、金国や清帝国を興したのはツングース系の満州族だが、清の愛新覚羅氏のアイシンは金を指す。私は新羅を支配したのは同じツングース系の〓貊ではないかと思っているが、その黄金やガラス器趣味を考えると支配層のルーツは北東アジアだけでなく中央アジアを含む外部からの移動も考えたくなってしまう。大陸と繋がっているゆえ、日本以上に多くの民族が集まった半島の古代史は壮大で興味深い。
朝鮮人になった日本人「沙也可」に興味があり慶尚北道の友鹿洞へも行った。帰化名・金忠善。秀吉が朝鮮半島に侵攻した文禄の役の先鋒将として、釜山上陸後ただちに部下と共に離脱、朝鮮国に味方した武将だ。戦後は女真族とも戦い、その功績で正二品という高い位を授かったのだから人格的にも立派だったのだろう。友鹿洞に隠棲し、その子孫が今も住む。名は沙也門だろうか、姓はわからない。加藤清正配下の武将らしいが、朝鮮軍に味方した理由を「礼教(儒教)に憧れていた」と記録に残す。あの武辺一辺倒の戦国時代にそんなことを考えた武将がいたのか多少疑問だが、秀吉の蛮行をおかしい…と考えたのはその行動からも確かであろう。「裏切者」と断じるのは簡単だが、あの時代にそんな日本人がいたことに感じ入り、思うことは多い。
大邱南西の谷あいにある友鹿洞の風景は沙也可にはなつかしい日本の農村そのものであったろう。
【講師紹介】勝股 優(かつまた ゆう)自動車専門誌『ベストカー』の編集長を30年以上務める。前講談社BC社長。古代史万華鏡クラブ会長。奈良を愛してやまない。