キスン便り(第45回)のび太のくせに

日付: 2021年09月08日 00時00分

 (「ドラえもん」で)ジャイアンはのび太をいじめるときに「のび太のくせに生意気だ」と言っていじめます。誰もが理不尽だと思うでしょう。しかし、これがのび太ではなく、「貧乏人のくせに」「女のくせに」「ユダヤ人のくせに」「朝鮮人のくせに」となってくると、多くの者は疑問に思わなくなります。
「のび太」というのは特定の個人です。個人に対し、お前はお前であるが故にダメだ、というのは、直ぐに自分に置き換えて、そりゃひどい、と反応することが出来ます。しかし不特定多数の集団を示す「貧乏人」「女」「ユダヤ人」「朝鮮人」となると、自分のこととして考える力が弱くなり、そうかあいつらは差別されて当然の奴らなんだ、と思ってしまいがちです。しかし現状認識は認識でしかありません。価値をどう判断するか、ということには影響を与えません。価値判断は倫理観や道徳観、あるいは利害得失によって行います。かわいそうだから、公平ではないから、正義に反するから、という理由で行動を判断すべきです。ですから「あいつはのび太だから」という事実認識で判断を下すのは妥当ではありません。「のび太は足が遅いからあいつとチームを組むと負けるから」というのは利害得失による判断で、判断の仕方としては形になっています。その理由で本当に仲間はずれにするかどうかは、また別の価値観に依ります。
なぜ差別をするのか、そう聞かれて多くの者は「皆もしているから」と言います。「皆がしているかどうかを聞いているのではない。あなたがした理由を聞いてるのだ」と言っても、「だから、皆がしてるんだから私もして当然でしょ?」などと怒り出します。「他の人が盗みを働いたらあなたもするのか?」「他の人が人殺しをしたらあなたも殺すのか」と言うと、黙り込みます。「他の人が犯罪を犯したという事実は、あなたが犯罪を犯してもいいという根拠にはならない」と言うと反論できません。
「なぜ差別をするのか」と聞かれて「朝鮮人だから」と答えるなら、あなたは、ジャイアンがのび太を「のび太のくせに」といっていじめるのをどう思うか、と聞き返します。ここでやっと多くの人は気づきます。「朝鮮人だから」というのは差別の理由にはならないのです。朝鮮人というのは集団を指します。集団の中にはいい人もいれば悪い人もいます。全体をひとまとめにして「朝鮮人のくせに」「日本人のくせに」と判断できない対象なのです。しかし人間はいとも簡単に全体をひとまとめにして「のび太のくせに」と切り捨てます。
昨今の日韓の軋轢を見ていると、「韓国みたいな国とは国交を断絶しろ」とか「韓国人とは付き合うな」という論調を良く耳にします。そういうことを言っている人たちは、自分がジャイアンと同じく、「のび太のくせに」と言っていることに気が付いていません。みんな正義を振りかざして、悪の権化である韓国を叩こうとしています。そしてそれは正義で自分はいいことをしていると思っています。志賀直哉の小説に「正義派」というのがあります。作品を読むと正義を振りかざす者は承認欲求というコンプレックスを満足させるために叫んでいるのだ、と分かります。誰からも話を聞いて貰えない正義派はうらぶれて哀しいものです。
韓国の政治家は自国民が賄賂とは関係なく、正しく生きていけるようにすべきなのに、日本をスケープゴートにしなければ政権を維持できないというのは情けない限りです。同様に日本人で正義派を気取らないと、自分という存在を満足させられない人々も哀れです。韓国なんてと言いそうになったら、「のび太なんて」と言っているジャイアンを思い出して下さい。正義を叫びながら魔女狩りをしてきた過去の人々と同じにならないようにしなければなりません。

李起昇 小説家、公認会計士。著書に、小説『チンダルレ』『鬼神たちの祝祭』『泣く女』、古代史研究書『日本は韓国だったのか』(いずれもフィールドワイ刊)がある。


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