韓日基本条約が6月22日、東京の首相官邸で署名されるその時間、ソウルでは野党や学生たち1万人ほどが屈辱外交糾弾デモを行った。朴正煕大統領は23日、韓日会談妥結特別談話文の中で、一部国民の敗北主義的な対日観を批判した。
「私は、国民の一部に、韓日交渉の結果が屈辱的だの、低姿勢だの、甚だしくは売国的とまで極言をする人々がいることを知っています。私は今まで、彼らの主張が政府を鞭撻し、政府が行う交渉の立場を強化するのに役立つこともあり得るということから、その主張を好意的に受け止めました。しかし、彼らの主張が、心から私たちが再び、日本の侵略を受けるのを恐れ、経済的に従属されることを憂慮することから来るものなら、私は彼らに尋ねたいです。どうしてそこまで自信がなく、被害意識と劣等感に捕らわれ、日本と言えば、無条件に恐れるのかということです。このような卑屈な考え、これこそが屈辱的な姿勢と指摘したい。”日本人と張り合えばいつでも私たちがやられる”という、劣等意識をわれわれは捨てねばなりません。近代化作業を蝕む癌的要素は、私たちの心の片隅にある敗北主義と劣等意識と退嬰的な消極主義、まさにこれです。
私はこの機会に、日本国民にも一言言っておきたいことがあります。過去、日本が犯した罪過が、今日の日本の国民や今日の世代に責任があると考えていません。しかし”日本はやはり信じられない国民だ”という対日不信感情が、われわれ韓国民の胸の中に再び芽生え始めれば、今回締結されたすべての協定は、何の意義を持たないということを、この機会に重ねて言っておくところです」
韓日国交正常化署名約1カ月後の7月19日、雩南(李承晩の号)建国大統領がハワイで死去した。看護師を雇う余裕もなかった雩南はフランチェスカ夫人がソファをベッドとして使いながら終焉の時まで病床を守った。21日、ホノルルの韓国人キリスト教会で告別式を終えた雩南の遺体は、ヒコム空軍基地に向かった。6・25戦争で雩南と共に共産軍と戦った米軍の将軍たち、雩南を心から尊敬した米国の戦友たちが遺体送還のための航空便を用意した。
雩南の帰国を許可しなかった朴正煕政府は20日、閣議で建国大統領の葬儀を国民葬に決定した。李承晩大統領と一緒に建国過程に参加した人たちは、国葬を主張、4・19に参加した「4月革命同志会」は、雩南の晩年の失政を理由に一切の礼遇に絶対反対した。大半のマスコミも4月同志会に同調した。朴正煕政府は反対の世論を考慮し国民葬にするものの、格式は事実上の国葬としたのだ。
7月23日の午後、建国大統領の遺体を載せた米空軍輸送機が金浦空港に到着した。朴正煕大統領は李孝祥国会議長、趙鎮満大法院長、丁一権総理大臣らと一緒に空港で建国大統領の遺体を迎えた。多くの国民が街頭で遺体を迎えた。葬儀をどうするかで対立が続いた。
雩南の養子の李仁秀は「父は自分の死後、簡素な葬儀を望んだ」と言い、政府の国民葬の提案を断り、家族葬で行うことにした。7月27日、建国大統領の棺が国立墓地へ向かうとき、数十万の市民が沿道で哀悼した。雩南に対するメディアの批判的論調とは全く違ったものだった。
国立墓地で埋葬の前、簡単な告別式が行われた。丁一権総理大臣が代読した朴正煕大統領の弔詞は、雩南を「独立運動の元勲でかつ建国大統領」と呼称し始まった。
(つづく)