大韓民国の建国史(246)海洋文明圏への大戦略、韓米同盟の強化と拡張

日付: 2021年08月31日 16時59分

 5月26日の午前、朴正煕大統領一行は10日間の訪米日程を終え、米国側が提供した大統領専用機で帰国の途に就いた。5月27日の午後7時30分、朴大統領は金浦空港に到着した。
朴大統領は、到着声明を通じ、「私は今回の訪米で、ジョンソン大統領と米国政府および米国民から手厚い歓待を受けたことをまず、国民の皆さんに申し上げ、このような歓待は、米国国民が韓国国民に送る熱い友情の証であると私は思います」と述べた。
朴大統領は、「私は米国を見て、われわれに”生産する政治”が必要であることを感じました。”生産のない政治”はあり得ないということを感じました。”生産”それがまさに米国の政治でした」「今回の訪米を通じて民主主義の偉大さを改めて確認することができました」「権利を求める市民になる前に、責任を果たせる市民、他人に頼る前に、先に自分の力で立ち上がろうとする国民にならねばなりません。これが今日、この場で皆さんに申し上げる挨拶の言葉であり、贈り物です」と締めくくった。
朴大統領は、米国と協議したベトナム戦争派兵と韓日国交正常化を最終的に公式化するため、政府の力量を総動員した。南ベトナム政府からの戦闘部隊の派兵要請が1965年6月14日、正式に届けられた。韓日国交正常化条約は6月22日、東京で正式調印された。戦闘部隊の国外派兵と条約の批准は、国会の同意を受けねばならない事案だ。
国会は8月13日、「国軍のベトナム派兵のための第3次派兵動議案」を可決した。翌日の14日、国会は与党単独で韓日基本条約批准動議案を可決した。野党は韓米同盟や安保と直結する戦闘部隊の国外派兵については、大きな抵抗の声は出さなかったが一方、韓日国交正常化反対の克服に苦心した。
野党は青年学生などと連帯して大々的な国交正常化反対運動を展開した。植民地時代が終わってわずか20年という国民の情緒を最大限に刺激、日本との国交正常化を推進する主体を「親日派」と決めつけ攻撃した。国家革新と発展のための進取的青写真など持たなかった旧世界の政治家たちが、彼らの既得権を奪った朴正煕政府の対日国交正常化に反対したのは当然の反応だったかも知れない。
そして、停戦協定から10年余りが経過した韓国では「革新系」が、現実に不満の多い大学生や青年層にすでに根を下ろしていた。彼らは、朴正煕政府が推進する国家発展、開放化戦略を理解しようともしなかった。理解できるレベルでもなかった。韓国で反共軍事革命が起こるや、平壌側は対南工作体制を強化、64年2月には「対南事業総局」を発足、対南工作網の再建を推進しながら再南侵に備えた。
野党や大学生などの韓日交渉反対が激しくなり始めたのは64年1月だった。3月には、5・16革命以降、行われなかった学生デモが始まった。韓日会談反対の学生デモは6月3日、ピークに達した。ベトナム派兵と韓日国交正常化をもって韓米同盟の拡張と強化を推進した朴正煕政府は、非常戒厳を宣布、海洋同盟強化への大戦略を強行した。65年2月に基本条約、そして4月には「隣接海洋の主権に対する大統領の宣言」(平和線=李承晩ライン、52年1月18日)を撤回する韓日漁業協定にも仮署名した。65年12月18日、ソウルで基本条約と協定の批准書が交換された。大韓帝国との乙巳保護条約締結以来、60年ぶり正式に修交した。         (つづく)


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