ソウルを東京に擬える 第3回 流行の発信地としての学生街

日付: 2021年08月15日 00時00分

吉村 剛史 文・写真

立教大学本館
ソウルの学生街といったとき、どこを思い浮かべるだろうか。延世大学校がある新村はその代表的な場所だ。1885年にその前身となる王立病院として設立された名門大学のお膝元であり、近くには西江大学校や梨花女子大学校がある。このあたりで留学生活を送った人たちは、手頃なサムギョプサルやタッカルビを肴にソジュを飲みながら新村の街で仲間と語り合ったことだろう。
延世大学校の本館であるレンガ造りのアンダーウッド館(1924年完成)はどこかで見たような佇まいだが、西池袋にある立教大学本館(18年完成)にそっくりだ。
設計者は同じマーフィー&ダナ建築事務所によるものである。日本統治時代を生きた詩人の尹東柱も延世大学校(当時は延禧専門学校)を卒業したのち、立教大学にも通った。今の立教大学のそばにはカフェや結婚式場があって洒落た雰囲気もあるが、池袋駅西口付近は繁華街であり学生ばかりの街ではない。
ところで新村は近年、勢いが落ちており、20代以下にとっては学生街といえば弘大の名が挙がるだろう。芸術系総合大学の弘益大学校を中心とする学生街で、韓国の流行の発信地である。弘大入口駅9番出口は待ち合わせスポットで、週末の夜には人だかりができる。メインストリートの歩きたい通りにはバンドやパフォーマンスをする人たちを中心に若者の輪ができる。駐車場通りにかけては若者向けの飲食店やショップが林立し、ここを30代が歩くと違和感を覚えるほどだ。東京の若者の街といえば渋谷や原宿を想像するが、弘大は20代前半の若者たちばかりでその熱気には圧倒される。
延世大学本館
 ソウルの学生街としてもうひとつ挙げるならば惠化駅近くの大学路だろう。75年まではここに東京大学にも例えられるソウル大学校の本部があったが、現在は医科大学(医学部)を残すのみだ。この建物の雰囲気は東京大学安田講堂や慶應大学北里記念医学図書館の建物にも似ている。ちなみに大学路周辺にはもうひとつ大学がある。正門に”SINCE 1398”と記された成均館大学校で、朝鮮時代最高峰の教育機関である成均館を前身とする。これは江戸の昌平坂学問所のような存在だといえよう。駅から続く繁華街は朝鮮時代に成均館の儒生たちが過ごした「大明ゴリ」という名の歴史ある通りで、今も若者でごったがえす。さらに大通りを渡った向かいには100を超える小劇場が密集し、演劇やミュージカルに精魂を込める演技者たちや熱心に見つめる観客たちが集う。
だが、東京にはソウルほどに際立った学生街が見当たらない。池袋や渋谷は若者ばかりの街ではなく、原宿や下北沢も大学街としての印象は薄い。学生街として名の挙がる早稲田大学近くの高田馬場駅周辺には学生向けの居酒屋が多く、特に春のコンパの時期はにぎわうが、それでも学生だけの街とは言い切れない。また明治大学や美術専門学校が集まる御茶ノ水には多少なりとも芸術的な要素が見られるが、近隣はオフィス街でもある。ソウルでは大学の周りに若者向けの店がこぞって集まる傾向があるが、東京では若者のまちと学生街は必ずしも一致してはいない。
流行の発信地としてみたとき、弘大の昨今のにぎわいからは様々な若者カルチャーが生み出されているが、今の東京は少々インパクトに欠けるような気がしてならない。最近では新大久保も韓国カルチャーから若者が集まるようになり、連日にぎわいを見せているが、今後日本発で海外へ波及する流行が生み出されるとすれば「若者だけの街」とも言えるくらい強烈なインパクトをもった街が必要になるかもしれない。戦略的で集約されたまちづくりも視野に入れるべきではないだろうか。

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吉村剛史(よしむら・たけし)
1986年生まれ。ライター、メディア制作業。20代のときにソウル滞在経験があり、韓国100都市を踏破。2021年に『ソウル25区=東京23区』(パブリブ)を出版。


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