古代史万華鏡クラブ★番外編「朝鮮王朝第6代 端宗(タンジョン)」

叔父に殺された悲劇の若き王
日付: 2021年08月15日 00時00分

「端宗を思う」
古代史万華鏡クラブ会長 勝股 優


朝鮮王朝505年の歴史を考えると、宮廷内には権謀術数渦巻き、王族にとってまことに生き難かっただろう。古代日本朝廷も同様だが、有力な王位候補者には常に逆賊の汚名による死や流刑の影がつきまとっていた。
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 王にしても例外ではない。クーデターで宮廷を追われた王がいる。悪徳非道の暴君と伝わる燕山君(10代)は江華島に流され2カ月後に病死。壬辰倭乱で荒廃した国土を復興したにもかかわらず光海君(15代)は済州島に流されたが、六十六歳まで生きた。
もう一人、若き王の悲劇もある。大王と称えられた世宗の孫にあたる端宗(6代)は12歳で即位したが、わずか15歳でクーデターにより退位、後に江原道に配流、17歳で毒殺された。その短い生涯は”端宗哀史”として語られている。
端宗の運命を変えた「癸酉靖難」という政変を説明したい。叔父の首陽大君の陰謀で起きた。世宗時代からの忠臣で王の後見人でもあった金宗瑞に謀反の罪を被せ殺害。王の側近も次々殺して権力を掌握。端宗は圧力に耐えきれず上王に退き、首陽大君が巧妙に第7代王位(世祖)に就いた事件である。
しかし朝廷の皆がこの政変劇に目を塞いだわけではない。ハングルを創製した世宗時代からの最高学術機関、集賢殿出身の文人・学者が王位簒奪を謀反と判断。聡明で世宗から愛された端宗の復位運動を行ったが事成らずと見、世祖暗殺を謀るが計画が洩れ、加担した17人などが処刑された。端宗はこの計画を知らなかったというが、これが端宗の命を奪うことになる。
後年、11代中宗の施政で、処刑されたうちの6人が「死六臣」(死を賭して尽くした忠臣)として再評価され、端宗の名誉も回復。燕山、光海は王子時代の”君”のままだが、端宗には後に正式な”宗”の廟号が与えられた。太白山脈山中の御陵脇にある一君忠誠を尽くした文人・官僚・武人から無名の男女の忠臣たち268柱の位牌は薄幸な端宗を守っているかのようだ。そして今、江原道寧越郡の人々も王と忠臣たちを祭り、称えている。

 端宗は朝鮮王朝歴代27人の王のなかで、一般人に降格されながらも死後、皇位に復位した唯一の人物だ。500年に及ぶ朝鮮王朝時代に、国是であった「忠と孝」に基づいて考えると端宗が占める歴史的意味は決して小さくない。

■波乱に満ちた17年の生涯


端宗は1441年(世宗23年)7月23日(旧暦)、景福宮・資善堂で生まれた。名を弘暐という。ハングル文字を作ったことで知られる世宗は、祖父にあたる。母である顕徳王后は産後の病で、弘暐を生んだ翌日に24歳の若さでこの世を去った。幼い弘暐は48年(世宗30年)に、8歳で王位継承者として承認され(世子冊封)、50年に世子(皇太子)になった。ところが、病弱だった父の文宗が52年に39歳で崩御したため、12歳の若さで王位についた。
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 55年、15歳のときに叔父の首陽大君がクーデターを起こしたため、同年7月に王位を簒奪され「恭懿温文太上王」(魯山君)となり、昌徳宮へ移った。首陽大君は王位を簒奪し、第7代国王・世祖となる。この政変は「癸酉靖難」と呼ばれている。魯山君はその後、江原道の寧越郡清冷浦に流され、17歳で薬殺の刑に処されたのである。
殺された後、その遺体は東江に捨てられたが、忠臣の厳興道は両親のために用意した棺桶に魯山君の遺体を納め、自分の先祖の墓がある「冬乙旨山・申坐乙向」に埋葬した。
その後、朝鮮王朝では1516年(中宗11年)に神像を送り魯山君の墓に安置し、81年(宣祖14年)には墓に石造物を建造した。それから100年以上経過した1698年(粛宗24年)、諡号を追送して「純定安荘景順敦孝」とし、廟号を端宗、陵号を荘陵とした。
寧越郡民は端宗崩御後、端宗の安らかな永眠と再臨を願い、端宗の御霊を慰めてきたのである。

■公式の肖像画(御真影)作成


これまで寧越郡では、白馬に乗って太白山の神霊となっていく端宗に、忠臣のチュ・イカンが山ブドウを捧げたという伝説を形象化した山ブドウ進上図を奉安してきた。しかしこれは単なる想像図であり、また様々な端宗の肖像画が混在しているため、標準影像となる御真影の制作が求められていた。
寧越郡はこのような声に応えて、2019年6月に本格的な御真影制作作業を開始し、21年4月1日付で標準影像第100号に公式指定される運びとなった。
「朝鮮王朝実録」に端宗の御真影を描いたという記録はないので、「朝鮮皇祖実録」に登場する端宗の容貌記録と、「太祖御真龍眼」(国宝第317号)、16年に国立故宮博物館が発表した「世祖御真龍眼」を参考に描かれた。
御真影は、横120センチ×縦200センチの規格に正面から全身の坐像として絹に彩色された。同時に、制作の全過程と追寫奇譚が納められた「端宗御真追寫儀軌」、王の肖像画の後ろに垂れる「日月五蜂屏」、また端宗御真影安置式に使われる「班次図」も制作された。
今回、端宗御真が作られたことで、(1)朝鮮王室文化の復元(2)寧越郡オリジナルの文化的観光資源の創出の基礎作り(3)御真影を活用した歌劇などの歴史文化コンテンツを制作・活用するきっかけ作り―などのメリットが生まれた。さらには、寧越郡民の暮らしの中で歴史的に受け継がれてきた「忠節の地」のイメージがクローズアップされることにもなった。

古代史ファンの注目集める江原道

古代史万華鏡クラブ・第11回紙上勉強会で取り上げた、知る人ぞ知る「濊貊国」は、江原道に存在したとされるが、その国を知る資料はとても少ない。魏志東夷伝に民度の高さが記されているこの国は、しかし4世紀半ばに忽然と歴史から姿を消す。謎が多い分、古代史ファンにはたまらない魅力となるのだが、このエリアはそれだけにとどまらない。
時代はずっと上って、紀元前13世紀ころにまで遡る。韓半島で最も古い青銅器が江原道旌善郡のアウラジ遺跡から発見されているのだ。この遺跡で発掘された住居は、長方形で周囲に石が積んであり底には板石が敷いてあるもので、これは典型的な青銅器時代の様式だという。炭素年代測定の結果、紀元前13世紀から11世紀の「早期青銅器」時代に造られたものと推定された。
刻目突帯文土器をはじめ、石・土製の漁網錐、玉の装飾、青銅の装飾など、多くの出土品が出た。石棺墓からは成人のものと見られる人骨も発掘されている。これらを最新の研究で分析し、当時の様子をより具体的に想像できることは大きな喜びだ。
誰も知らない古代史の世界。学会での通説も単なる仮説に過ぎず、遺跡が一つ出ればあっさりと覆される。古代史ファンにとって魅力的なエリア、その一つが江原道であることは間違いない。

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■端宗文化祭り


朝鮮王朝第6代王・端宗は、寧越の清冷浦へ流され、若くしてこの世を去った。現在、寧越郡では端宗の魂と忠臣の魂を称えるために端宗文化祭りを開催している。この文化祭りは寧越郡民が自ら幼い王・端宗のために1967年から開催している祭りで、全国で唯一王陵に祭享を捧げる歴史と伝統を持つ。
端宗は朝鮮時代の歴代王の中で唯一、葬儀を執り行えなかった王だ。しかし、崩御して550年が過ぎた2007年に国葬を行うことができ、以来、毎年端宗の霊魂を慰めている。
端宗文化祭は地域の様々な団体が主体的に行う行事が多く、各団体が行うプログラムに対する地域住民の自負心は大きい。
端宗の国葬再現や葛の綱引き、お年寄りの健康体操大会など、郡民が家族ぐるみで参加する行事も多く企画され、地域和合の場として祭りが認知されている。

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写真1:端宗御真は2021年4月1日、先賢政府標準影像第100号に指定された。荘陵墓内の端宗歴史館に安置されている。端宗の暮らしの軌跡を振り返りつつ、次世代に残すべき文化的史料として期待されている

写真2:端宗の御陵「荘陵」(2009年に朝鮮王陵40基の一つとしてユネスコ世界遺産に登録)

写真3:地域住民が自発的に参加する行事・国葬再現

 


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