新解釈・日本書紀 応神<第11回> (15)「辰斯王の无礼(無礼)」

日付: 2021年07月21日 00時00分

 日本書紀に記載された応神元年は「是年也 太歳庚寅(390年)」であるから、2年後の応神3年(392年)は百済辰斯王8年(392年)・阿萃王元年(392年)と一致する。
「三国史記・百済本紀」によれば、392年は狩猟中の辰斯王が狗原行宮で急逝し、甥の阿萃王が継承した年だ。
同じ392年の出来事として日本書紀は「辰斯王が倭に対して无礼を働いたため、応神が紀角宿禰を派遣して失策を責めた。すると百済の朝臣たちが辰斯王を殺害して謝罪し、阿花(阿萃王)を新しい王に推戴して帰還した」と記している。
三国史記と日本書紀の双方で年月と事件内容が一致しており、日本書紀の記録が三国史記に記載されてない辰斯王の急逝事由を記録しているとみてもよい。
倭に対する辰斯王の无礼とは何だろうか。三国史記・百済本紀によれば、百済連合の北方の要衝である関弥城が陥落したにも関わらず、善後策も講ぜず狩猟などに興じていることを指すと思われる。百済連合とは、沸流百済と温祚百済の連合のことだ。
一方、温祚百済の朝臣たちも、辰斯王が王位を簒奪した上に国家の危機に国防を怠り狩猟に出かけるという態度に不満が積っていた。その不満が同盟国の沸流百済からの圧力に誘発される形で、辰斯王を弑害し王位を簒奪された阿萃王を擁立したものと推測される。つまり日本書紀・応神3年条は狗原行宮で急逝した辰斯王の死因を記述しており、それは関弥城の陥落にともなう連合王朝内部の政治的紛糾であったのだ。
三国史記・百済本紀に記録された百済と倭の最初の修交は、沸流百済が滅亡した次の年である397年であり、それ以前の百済と倭の交渉はあり得ない。日本書紀の編著者は、沸流百済の滅亡に伴う応神の亡命を隠蔽するため、応神が沸流百済王に即位した390年(太歳庚寅)を応神元年に設定し、392年の事件を応神3年条に記載したというカラクリだ。

(16)阿花王(阿萃王)の欠礼

応神8年(397)条は、百済記を引用する形で、「百済の阿花王(阿萃王)が日本に欠礼するや、応神は百済の忱弥多礼(済州)・峴南(車嶺以南)・支侵(車嶺以西)・谷那(礼成江流域)・東韓(慶南海岸)の5地域を奪取したが、百済が直支太子(腆支太子)を質として修交することによって先王のよしみを回復した」と記している。
その5地域は、あたかも温祚百済の領土のように扱っているが、この中の一つである忱弥多礼(耽羅)が温祚百済に帰属したのは、熊津南遷の次の年である476年のことだ。これよりも80年前の時期に忱弥多礼が温祚百済のものであったはずがない。忱弥多礼は温祚百済に自ら進んで帰化した残存檐魯(百済の開墾制度)の一つなので、これが含まれた5つの圏城は檐魯国家であった沸流百済の領域と見るべきだろう。
神武=応神は、分国の狗奴国に漠然とした期待を寄せて亡命したが、狗奴国の姿はすでになかった。塩土老翁から(狗奴国は)東遷したという情報がもたらされ、東征に踏み切った。それが大和への侵寇となり、突如の百済系大和王朝の樹立となったのだ。


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