新解釈・日本書紀 応神<第10回> (13)「天皇の系譜は応神からはじまる」という説

日付: 2021年07月14日 00時00分

 直木孝次郎著『神話と歴史』は、「天皇の系譜は応神からはじまるものであったかもしれない」と述べている。井上光貞説も「実在したことが確かな最古の天皇(応神)は、韓半島からの渡来者であることを否認することはできない」と示唆している。騎馬民族征服王朝説は、後期古墳の副葬品などが「大陸と韓半島のそれと完璧に共通」するということを根拠に、任那(釜山)から九州に渡って邪馬台国を建てた崇神を韓半島の弁辰人と見なし、崇神の後孫である応神が畿内に東遷したと主張しているのだが、その弁辰は沸流百済の別称であった。
ネオ(新)騎馬民族説として評価されているのが水野祐説だ。266年以後に邪馬台国が消滅したのは、敵対関係にあった南九州の狗奴国(熊襲)の応神に征服されたためで、それを継承したのが仁徳であり、畿内に東遷して畿内朝を建てたという主張だ。邪馬台国が消滅したとする根拠を、韓・中の文献から266年以降に邪馬台国の存在が消えていることに置いている。しかし、266年以後には邪馬台国のみならず、狗奴国も現れない。つまり、邪馬台国同様に狗奴国も存在していなかったことになる。
騎馬民族は、海では船、陸では馬といった機動力を活かして周辺諸国を併呑していくのに対して、農耕民族はほとんど海を渡らないという特徴がある。それが応神の頃から突然、騎馬の風習を窺わせるものが多くなる。鉄剣や弓矢、轡、馬鎧など大陸様式と同じものが遺跡から出土している。さらに白衣を好んだ風習や殉死、服喪、埴輪なども騎馬民族と親縁関係があるとされる。

(14)神武紀は応神亡命を隠蔽するためのもの

日本書紀・神武紀によれば、神武は7年を費やして九州から畿内に移動し、BC660年に即位したことになっているが、井上光貞や江上波夫らの考証によって、これは4世紀以後の史実とされた。神武紀は、応神の大和侵寇が過去に投影されたフィクションなのだ。換言すれば、神武と応神は同一人物ということになる。
沸流百済による百済系大和王朝の開設は、韓半島で沸流百済が滅亡した翌年の397年、つまり応神7年だ。応神は東征(熊津を脱出し北九州に到着後、大和に侵寇)して王朝開設するまでに7年を要したとあり、神武の即位前史7年と一致する。応神朝は沸流百済の傀儡王朝だった。かつての分国である九州・狗奴国の領域から大和に侵寇した経緯を神武紀に投影し、自らの倭地における存在を遥か昔に設定したのだ。
応神が誕生した北九州の蚊田(福岡県糸島郡前原町)は、沸流百済が日本列島に最初に上陸した地点と思われ、神武(応神)が崗水門(福岡県遠賀郡盧野町)から出発して瀬戸内海を経て畿内(奈良)へ移動し、397年正月に橿原宮(奈良県橿原市)で即位したというルートは、地名考や現地伝承ですでに明らかにされている。
神武紀は、応神の亡命を隠蔽するためのものだ。沸流百済を切り捨てるために、沸流系の淡路(植民地)であった邪馬台国を前身として引き継ぎ、その起源をBC660年に遡及させたのだ。


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