新解釈・日本書紀 応神<第9回>(11)従来からある山部の職権を奪取して再編

日付: 2021年07月07日 00時00分

 日本書紀に「山守部を定めた」とあり、古事記にも「山部・山守部を定めた」とある。字意から判断すれば、山部は山林に入って仕事をし、猟もする人で、山守部は山林を管理、保全する役目を担っていたのだろう。それらを管掌したのが山部連で、産物貢上の義務もあったと思われる。日本書紀・景行紀に「山部阿弭古の祖である小左を呼んで冷たい水を献上させた」とある。
応神40年1月に応神の子の大山守が、山川林野を司る役目に任命されたとあることから、従来の山部を新しく再編成して管掌したのかもしれない。その大山守は屯田司の職権を奪取しようとしたが、果たせず死に追いやられた。これらのことは応神朝が従来の職権を奪取し、新しく再編成する作業を強行していたことを窺わせる。これは「応神亡命王朝=倭国征服王朝」であることを物語るものではないだろうか。
『和名抄』に記載されている大和国広瀬郡山守郷は、今はその名を消失しているが、応神が定めた山守部の部民が住んでいたと見られており、現在の奈良県北西部の広陵町北部に比定されている。近鉄田原本線「箸尾駅」周辺だ。また、同書には大和国平群郡夜摩郷が記載されている。法隆寺の近辺で、夜摩は旧称・山部であったろうとされている。ちなみに、万葉歌人の大家に山部赤人がおり、壬申の乱では山部王が登場、桓武の幼名は山部王だ。

(12)日本最初の馬制遺物は 応神古墳陪塚の丸山古墳から出土

卑弥呼時代の銅鏡が畿内にある4世紀の古墳から集中的に出土したという事実から、邪馬台国と畿内王朝は畿内で継続されたものであり応神古墳もその延長線上にあるというのが、日本史学界の邪馬台国畿内説だ。「不可知の世界から忽然と出現した」と形容される征服王朝の記念碑的な応神古墳は無視して、応神の外来説が成立不可能だと主張、万世一系の皇統史観を補強する説となっている。
ところで、日本最初の馬制遺物は応神古墳の陪塚(=主墳の周囲に隣接する小さな古墳)とされる丸山古墳で出土しているので、騎馬民族は応神であって崇神ではあり得ないと指摘されている。文献からも崇神が開設した邪馬台国は266年以後に消滅しているため、崇神が邪馬台国消滅以後の応神とは連結されないとする。すなわち、崇神と応神の連結性は文献上からも考古学的にも成立しないというわけだ。
前期古墳が「呪術的で象徴的で平面的」であったのが、後期になって「戦闘的で王侯貴族的な北方アジアの騎馬民族的特質に突変」したのは、応神亡命による当然な考古学的結果でもある。前方後円墳は日本独特の墓制であり、韓半島には存在しないと長いあいだ唱えられ定説とされてきたが、全羅道海南郡北日面方山里に位置する古墳が、長さ79メートル、高さ10メートルの前方後円墳であることがわかり、慶尚道でも発見された。


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