キスン便り(第42回)生きるべきか死すべきか(1)

日付: 2021年07月07日 00時00分

 表題はハムレットの中の有名な台詞です。もしこれが「生きていられないから」「死のう」と考えることを意味しているのなら、それは論理的には間違いです。
「生きる」と「死ぬ」の間には「生きない」という生き方と、「死なない」という生き方があります。場合分けで見ていきましょう。「11(いちいち)生きる」と「00(ぜろぜろ)死ぬ」の間には「01(ぜろいち)」と「10(いちぜろ)」が存在します。つまり「生きる」の否定形である「生きていられないnot11(ノットいちいち)」と思ったとき、次の選択肢は「死ぬ」だけではなく、「死なない」も「生きない」もあるということです。「生きていられない」から「死ぬ」というのは、短絡的ですし、間違いです。「死ぬ」には「死ぬに値する理由」がいるのです。
私は大学生の時、外国籍の者には会計士の受験資格がないと、国家資格ガイドブックに書かれているのを見て信じました。その情報は間違っていたのですが、受験資格がなければ実力など何の役にも立たないと、落ち込みました。日本はここまで朝鮮人を飼い殺しにするのかと、日本を呪いました。自分から希望を奪った日本に対し、私はテロ攻撃を仕掛けたかも知れません。それだけ深く日本を恨んでいた時代がありました。
アメリカの9・11を見たとき、あのアラブ人たちはアメリカからどれだけ希望を奪われたのだろう、と思いました。勿論宗教を誤解した上でのことだったでしょうが、私は自分の経験から、人は、自分から希望を奪った者に対し、テロを仕掛ける、と知っていました。関係のない人を巻き込んだアラブ人は勿論、非難されるべきです。それを知った上で、第二次大戦後も世界中に爆弾を落とし続けてきたアメリカ政治はサイテーだと思います。アメリカは落とした爆弾の数だけ、世界中から「希望」を奪い続けてきたのです。アメリカにも、テロリストにテロをさせた責任の一端があると思います。
さて、資格試験も受けられないと信じた私は、「生きていられない」と思いました。死のう、と考えている内に、初めに示した論理構造に気がつき、死ぬなら死ぬに足る理由が必要だ、と考えました。しかし死ぬだけの理由は幾ら考えても見つかりません。自分を生きていけなくしているのは日本です。ならば死ぬべきは日本であって自分ではありません。どうして死ぬべき日本に代わって自分が死ななければならないのかと、だんだん腹が立ってきました。
考え続けて、「生きないという生き方」をすることにしました。死ぬときが来るまでこの世を漂い、傍観者として、日本がなんぼのもんか見てやろう、と考えました。することもないので、小説でも書いてみようか、と下手な小説を書き始めました。
自分の目の前にはどうしようもない父親が居ましたので、どうして朝鮮人はこんな奴らばかり(これは偏見です)なんだと、その原因を探る研究も始めました。物心ついたとき、自分はバカでアホでダメなチョウセン人だと思わされていました。そう吹き込んだのは父親です。日本がそう思っているというのは、事実認識ですが、そのような状況下で自分はどう行動するのかという価値判断の結論を父親は多くの人間と同様に、認識を理由にして下していました。全く別次元のことなのに味噌クソ一緒にして、チョウセン人はダメなんだと私に吹き込みました。そう気がついたので、せめて死ぬまでには汚れちまった自分の心を生まれたときと同じ、ゼロの状態にして死にたいものだと思っていました。
適当にふらふら生きていたらかみさんに拾われました。そのお陰で会計士になり、小説家にもなれました。よくも拾ったものだと感心するばかりです。

 李起昇 小説家、公認会計士。著書に、小説『チンダルレ』『鬼神たちの祝祭』『泣く女』、古代史研究書『日本は韓国だったのか』(いずれもフィールドワイ刊)がある。


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