新解釈・日本書紀 応神<第7回> 

日付: 2021年06月23日 00時00分

伴野 麓・著


神皇正統紀に「異敵の来襲は開化48年の時に3万3千人、仲哀時代に20万3千人、神功時代に30万8千5百人、応神の時に25万人、欽明時代に30万4百人、敏達の時には播磨国の明石浦までやってきた。推古8年に43万人、天智元年2万3千人、桓武6年40万人」という記述がある。この「異敵の来襲」という文言を「韓半島からの渡来」という語に読み替えれば、当時の様子がよくわかるであろう。
また、氏族の祖先系譜を考察した結果が記紀にあるが、古事記には204氏のうち200氏が、日本書紀では111氏中93氏の始祖が、応神以前であると記述されている。そのことは、6~7世紀に朝廷と関係する貴族の多くが「応神の前と後」を異なる時代と感じており、応神から新しい時代がはじまったと認識していたことを意味するのではなかろうか。すなわち、応神前をはるかな古代と考え、自己の属する氏族の始祖をその時代においたというわけである。

高句麗・広開土王に撃破された沸流百済

応神が皇位に就いたのは太歳庚寅の年で、西暦でいえば390年だ。沸流百済は、396年に高句麗の広開土王によって撃破され、王と王族は日本列島に亡命した。沸流百済は熊津(現在の公州)に都のあった、広開土王碑にある「利残国」のことだ。一方「百残国」というのが、漢城(現在のソウル)に都を置いていた温祚百済のことで、王族のほとんどは高句麗の都に連行されたとある。この利残国と百残国がともに百済と解されているから、混迷が増幅しているのだ。
396年に利残国(沸流百済)を討伐した広開土王は、王弟と大臣10人を拉致したが、王と太子、王子を包む王族集団はどこかに行方をくらましてしまったのだ。彼らは『旧唐書』が書いているように「倭国之別種」であり、倭人でないことを明示している。
彼らは、高句麗との対決で数多くの歩騎軍団を動員した騎馬国家であり、馬制が包含された後期古墳は彼らのものと考えられる。彼ら沸流百済の滅亡年度と応神古墳の成立年代はほとんど一致することから、高句麗の広開土王に撃破され、姿を消した沸流百済の王が倭地の天皇になったと解釈してもおかしくはない。
広開土王に撃破されて温祚百済(百残国)は高句麗に完全降服したが、沸流百済(利残国)は行方不明となった。じつは倭地に亡命したのだが、自らの存在を黒子にしたため、史上から消える形となり、百済といえば温祚百済を指称するようになった。
沸流百済と温祚百済は兄弟国であり、高句麗とも血縁国になる関係にあり、扶余系騎馬民族の末裔だ。その沸流百済は、海上王国として倭国はもちろんのこと、揚子江河口や遼西にも分国を経営する東夷強国となっていた。日本の歴史学界も、それら二つの百済が区別できず、一つの百済つまり温祚百済(百残国)の視点で考証しているがゆえに、混迷を深め、いまだに謎の4世紀などと論述している。
『三国史記』が記す百済の領域は現在の京畿道、忠清南道、全羅北道、全羅南道にまたがる広範な地域だが、それは温祚百済の領域であって沸流百済の都邑地であった熊津へ南遷したのは475年のことだ。これは倭地に亡命した沸流百済が、領有していた韓地を温祚百済に下賜したことを意味している。


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