新解釈・日本書紀 応神<第6回> (7)応神の宮城の所在は、はっきりしない

日付: 2021年06月09日 00時00分

伴野 麓・著

 日本書紀〈神功紀〉3年条で、「誉田別皇子を立てて皇太子として、大和国の磐余に都を造った。これを若桜宮という」とあるが、この「大和の磐余」が応神の宮城と見なされ、磐余の稚桜宮と称されたとする。神功の磐余稚桜宮は、履中天皇の宮城の名を流用した可能性が高いとされ、同〈神武紀〉に見える兄磯城の居所であったともいわれる。
軽島の豊明宮は応神の宮とされ、軽島は後の大和国高市郡久米郷内の軽(奈良県橿原市大軽町)の地ということだ。『旧事本紀』は「都于軽島地、謂豊明宮」と記し、『続日本紀』『古語拾遺』『霊異記』『山城風土記』等は「豊明宮」としている。また、『津国風土記』は「軽島豊阿岐羅宮」と記し、宮址を大軽大内丘の軽寺に比定している。『地名辞書〈大和国〉』は、「軽島之明宮」を応神の宮としている。
軽島明宮は応神の居宮で、大軽町の春日神社付近にあったとみられ、軽古の北にある軽樹村坐神社は奈良県橿原市にあり、誉田別(応神)を祀っているが、本来は古代豪族である軽氏の祖先を祀ったものと考えられている。
軽の地は、懿徳、孝元(境原宮)、応神(明宮)の三朝の宮があったとされ、古事記〈孝元記〉に「建内宿禰之子許勢小柄宿禰者、軽部臣之祖也(建内宿禰の子の許勢小柄宿禰が軽部臣の祖である)」とあり、『新撰姓氏録』は「軽部、倭日向八綱多命之後也」と記す。
しかし、応神の宮殿(都)がどこにあったか、はなはだ曖昧だ。日本書紀〈応神紀〉を拾っていけば、19年条に吉野宮、22年条に難波の大隅宮、吉備の葉田の葦守宮、41年条に明宮がそれぞれ記されている。同〈仁徳紀〉には菟道宮があって応神の離宮とされ、『旧事本紀』には軽嶋豊明宮と記され、奈良県橿原市大軽町附近に比定されている。

(8)応神以後の古墳副葬品は貴族的・騎馬民族的

江上波夫が「倭が高度に武装した韓半島に進出したということは歴史の通則に反する」と指摘するように、当時の倭には海外に進出する国力などなかった。にもかかわらず、韓半島に食指を伸ばしたように見えるのは、沸流百済が旧土の奪回に執心したからということ以外に考えられない。応神朝は沸流百済の亡命王朝であったがゆえに、倭国での政権は仮の政権であり、倭国を拠点に韓半島の政権に揺さぶりをかけたと見るべきだろう。
応神は畿内に侵寇し、百済系大和王朝を急造して、その王朝が遥か昔から存在していたかのように偽装した。応神以後に出土する後期古墳の副葬品は、戦国的、貴族的、騎馬民族的なもので、前期古墳の遺物とはつながりがないと指摘されている。
当時の日本列島は、14、5世紀のアメリカ大陸と同様に新天地であり、韓半島から渡来してきた人々によって開拓されつつあった。その組織的な進出のはしりが崇神であり、決定的なものが応神の亡命であったということだ。そのいずれもが沸流百済の王族であり、崇神は沸流百済の影響下にあった大伽耶国の王、応神は沸流百済そのものの大王であったと考えられる。


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